・・・ 私はまじめに、「それでは、やはり、公卿の出かも知れない」と言って、彼の虚栄心を満足させてやった。「うん、まあ、それは、はっきりはわからないが、たいてい、その程度のところなのだ。俺だけはこんな、汚い身なりで毎日、田畑に出ているが・・・ 太宰治 「親友交歓」
・・・ 壮大なこの場の自然の光景を背景に、この無心の熊さんを置いて見た刹那に自分の心に湧いた感じは筆にもかけず詞にも表わされぬ。 宿へ帰ったら女中の八重が室の掃除をしていた。「熊公の御家はつぶれて仕舞ったよ」と云ったら、寝衣を畳みながら・・・ 寺田寅彦 「嵐」
・・・この溝渠には曾て月見橋とか雪見橋とか呼ばれた小さな橋が幾条もかけられていたのであるが、それ等旧時の光景は今はわずかに小林清親の風景板画に於てのみ之を見るものとなった。 池の端を描いた清親の板画は雪に埋れた枯葦の間から湖心遥に一点の花かと・・・ 永井荷風 「上野」
・・・と丸顔の男は急に焼場の光景を思い出す。「蚊の世界も楽じゃなかろ」と女は人間を蚊に比較する。元へ戻りかけた話しも蚊遣火と共に吹き散らされてしもうた。話しかけた男は別に語りつづけようともせぬ。世の中はすべてこれだと疾うから知っている。「御夢・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・虚子、四方太の諸君は折々この点に向って肯綮にあたる議論をされるようであるが、余の見るところではやはり物足らぬ心持がする。余の云う事も諸君から見れば依然として物足らぬかも知れぬ。しかし云わぬより参考になると思う。単に写生文を生命とする諸君の参・・・ 夏目漱石 「写生文」
・・・窓にも、軒にも、往来にも、猫の姿がありありと映像していた、あの奇怪な猫町の光景である。私の生きた知覚は、既に十数年を経た今日でさえも、なおその恐ろしい印象を再現して、まざまざとすぐ眼の前に、はっきり見ることができるのである。 人は私の物・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・ ピエエル・オオビュルナンはこんな光景を再び目の前に浮ばせてみた。この男はそう云う昔馴染の影像を思い浮べて、それをわざとあくまで霊の目に眺めさせる。そうして置けば、それが他日物を書くときになって役に立たぬ気遣いは無い。それからピエエルは・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・の子のありさま見をる、我ながらをかしさねんじあへてあるじをもここにかしこに追たてて壁ぬるをのこ屋中塗りめぐる 家の狭さと、あるじの無頓着さとはこの言葉書の中にあらわれて、その人その光景目前に見るがごとし。おのがす・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・文化的な仕事しかしていない東宝という映画製作所の闘争で、数千の武装警官と機銃をのせた甲虫が登場した光景は、フィルムにもおさめられた。言論の自由が民主的発言にたいしても、百パーセントの実効をあたえているだろうか。減刑運動という名のもとに、日本・・・ 宮本百合子 「新しい潮」
・・・ 良吉の妹が口を利いたので、母親がほんとでありながら、愛されて居なかったので、父親の意志で、恭二は良吉の後継者と云う事になった。 十九にもなったものを只食わしては置けないと云うので、あらんかぎりの努力をして漸う専売局の極く極く下の皆・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
出典:青空文庫