・・・「君は僕を、好色の人間だと思うかね。どうかね。」「そりゃ、好色でしょう。」「実は、そうなんだ。」 と言って、女中にお酌でもさせてもらうように遠まわしの謎を掛けたりなどしてみたのであるが、彼は意識的にか、あるいは無意識的にか、・・・ 太宰治 「母」
・・・つつしむべきは、好色の念だね。君なんかに、のぞき見されて、たまるもんか。君は、ときどき上流の家庭にも、しのび込んで、そうして、そこの大奥様の財布なんか盗んで家へ持ってかえり、そのお財布の中に、奇妙な極彩色の絵なんか在る場合、亭主とふたりで、・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・そのころの東京には、モナ・リザをはだかにしてみたり、政岡の亭主について考えてみたり、ジャンヌ・ダアクや一葉など、すべてを女体として扱う疲れ果てた好色が、一群の男たちの間に流行していた。そのような極北の情慾は、謂わばあの虚無ではないのか。しか・・・ 太宰治 「火の鳥」
・・・いちばん華やかな祭礼はお葬いだというのと同じような意味で、君は、ずいぶん好色なところをねらっているのだよ。髪は?」「日本髪は、いやだ。油くさくて、もてあます。かたちも、たいへんグロテスクだ。」「それ見ろ。無雑作の洋髪なんかが、いいの・・・ 太宰治 「雌に就いて」
・・・佐野君は、釣竿を河原の青草の上にそっと置いて、煙草をふかした。佐野君は、好色の青年ではない。迂濶なほうである。もう、その令嬢を問題にしていないという澄ました顔で、悠然と煙草のけむりを吐いて、そうして四季の風物を眺めている。「ちょっと、拝・・・ 太宰治 「令嬢アユ」
・・・少し好色すぎたと思われる描写が処々に散見されたからである。口の悪い次男に、あとで冷笑されるに違いないと思ったが、それも仕方がないと諦めた。自分の今の心境が、そのまま素直にあらわれたのであろう、悲しいことだと思ったりした。でもまた、これだけで・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
・・・おれは好色家の感じのような感じで、あの口の中へおれの包みを入れてみたいと思った。巡査が立っている。あの兜を脱がせて、その中へおれの包みを入れたらよかろうと思う。紐をからんでいる手の指が燃えるような心持がする。包みの重りが幾キログランムかあり・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・ 一九〇一年、スイス滞在五年の後にチューリヒの公民権を得てやっと公職に就く資格が出来た。同窓の友グロスマンの周旋で特許局の技師となって、そこに一九〇二年から一九〇九年まで勤めていた。彼のような抽象に長じた理論家が極めて卑近な発明の審査を・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・ 大正年間の大噴火に押し出した泥流を被らなかったと思われる部分の山腹は一面にレモン黄色と温かい黒土色との複雑なニュアンスをもって彩られた草原に白く曝された枯木の幹が疎らに点在している。そうして所々に露出した山骨は青みがかった真珠のような・・・ 寺田寅彦 「雨の上高地」
・・・夕映えの色も常に異なった暗黄色を帯びて物凄いと思う間に、それも消えて、暮れかかる濃鼠の空を、ちぎれちぎれの綿雲は悪夢のように果てもなく沖から襲うて来る。沖の奥は真暗で、漁火一つ見えぬ。湿りを帯びた大きな星が、見え隠れ雲の隙を瞬く。いつもなら・・・ 寺田寅彦 「嵐」
出典:青空文庫