・・・「我はこれ日本三菱公司の忍野半三郎」と答えたのである。「おや、君は日本人ですか?」 やっと目を挙げた支那人はやはり驚いたようにこう言った。年とったもう一人の支那人も帳簿へ何か書きかけたまま、茫然と半三郎を眺めている。「どうしまし・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・机の前には格子窓がある、――その窓から外を見ると、向うの玩具問屋の前に、半天着の男が自転車のタイアへ、ポンプの空気を押しこんでいた。何だかそれが洋一には、気忙しそうな気がして不快だった。と云ってまた下へ下りて行くのも、やはり気が進まなかった・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・と云う旗が、ある格子戸造りの家に出してあるのが眼に止まった。その旗は算木を染め出す代りに、赤い穴銭の形を描いた、余り見慣れない代物だった。が、お蓮はそこを通りかかると、急にこの玄象道人に、男が昨今どうしているか、占って貰おうと云う気になった・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・――そういう考えの意味のないことは彼にも勿論わかっていた。孝子でも水には溺れなければならぬ、節婦でも火には焼かれるはずである。――彼はこう心の中に何度も彼自身を説得しようとした。しかし目のあたりに見た事実は容易にその論理を許さぬほど、重苦し・・・ 芥川竜之介 「寒さ」
・・・が、私は、賢明なる閣下が、必ず私たち夫妻のために、閣下の権能を最も適当に行使せられる事を確信して居ります。どうか昭代をして、不祥の名を負わせないように、閣下の御職務を御完うし下さい。 猶、御質問の筋があれば、私はいつでも御署まで出頭致し・・・ 芥川竜之介 「二つの手紙」
・・・三尺の平床には、大徳寺物の軸がさびしくかかって、支那水仙であろう、青い芽をつつましくふいた、白交趾の水盤がその下に置いてある。床を前に置炬燵にあたっているのが房さんで、こっちからは、黒天鵞絨の襟のかかっている八丈の小掻巻をひっかけた後姿が見・・・ 芥川竜之介 「老年」
・・・いわば公私の区別とでもいうものをこれほど露骨にさらけ出して見せる父の気持ちを、彼はなぜか不快に思いながらも驚嘆せずにはいられなかった。 一行はまた歩きだした。それからは坂道はいくらもなくって、すぐに広々とした台地に出た。そこからずっとマ・・・ 有島武郎 「親子」
・・・り、他の道に足を踏み入れてなお初めの道を顧み、心の中に悶え苦しむ人はもとよりのこと、一つの道をのみ追うて走る人でも、思い設けざるこの時かの時、眉目の涼しい、額の青白い、夜のごとき喪服を着たデンマークの公子と面を会わせて、空恐ろしいなつかしさ・・・ 有島武郎 「二つの道」
・・・ そうしたら中の口の格子戸に黒いものが挟まっているのを見つけ出しました。電燈の光でよく見ると、驚いたことにはそれが僕の帽子らしいのです。僕は夢中になって、そこにあった草履をひっかけて飛び出しました。そして格子戸を開けて、ひしゃげた帽子を・・・ 有島武郎 「僕の帽子のお話」
・・・当時米国の公使として令名のあった森有礼氏に是非米国の婦人を細君として迎えろと勤めたというのもその人だ。然し黒田氏のかゝる気持は次代の長官以下には全く忘れられてしまった。惜しいことだったと私は思う。 私は北海道についてはもっと具体的なこと・・・ 有島武郎 「北海道に就いての印象」
出典:青空文庫