・・・写字をしたり口授を筆記したりして私の仕事の手伝いをしていた。面胞だらけの小汚ない醜男で、口は重く気は利かず、文学志望だけに能書というほどではないが筆札だけは上手であったが、その外には才も働きもない朴念人であった。 沼南が帰朝してから間も・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・『八犬伝』もまた末尾に近づくにしたがって強弩の末魯縞を穿つあたわざる憾みが些かないではないが、二十八年間の長きにわたって喜寿に近づき、殊に最後の数年間は眼疾を憂い、終に全く失明して口授代筆せしめて完了した苦辛惨憺を思えば構想文字に多少の倦怠・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・試みに小学校の修身書を一瞥してもすぐ分ることであるが、その並べられた題目と、其れに関する概念的な口授式の教授ぶりとが、ほんとうの人間性の結晶と思っては大間違である。今日の習慣なり、風俗なり、礼儀なり、或は又道徳と云ったようなものは、今日の社・・・ 小川未明 「人間性の深奥に立って」
・・・主に口授を筆記するのであったが、たまたま何かの教材の参考資料として、英国製で綺麗な彩色絵の上に仮漆を引いた掛図を持出し、その中のある図について説明をした。その図以外に色々珍しい何だか分からないものの絵が沢山あってそれが吾々の強い好奇心を刺戟・・・ 寺田寅彦 「マーカス・ショーとレビュー式教育」
・・・に関する論文の最後の一節を夫人に口授して筆記させ、出来上がった原稿を Phil. Mag. に送らせた。六月三十日には少し気分がよさそうに見えた。晩餐後ミス・オーステンの小説『エンマ』を読んでいた。しかし従僕が膳部を下げにはいって見ると、急・・・ 寺田寅彦 「レーリー卿(Lord Rayleigh)」
・・・と他の誰かの調書にあるとおり、口授を承認させようとするのである。又、「働く婦人」が共産党の宣伝の道具であるというデマゴギーをも押しつけようとした。清水は綴じあわせたケイ紙を見せ、「しかし、これを御覧なさい、『大衆の友』はちゃんとそうであ・・・ 宮本百合子 「刻々」
・・・原稿を口授して筆受させたのだと云う人があるが、そうではない。誤植や誤写の外に、誤訳がある。誤植や誤写は自分に発見し易いが、誤訳はそれがむずかしい。人に指摘して貰って知ることが多い。私は今日まで指摘して貰って、私のそれを承認した誤訳を、ここに・・・ 森鴎外 「不苦心談」
・・・ 先生の探求心が晩年まで衰えなかったことの一つの証拠は『音幻論』であるが、伝え聞くところによると、先生はあれを病床で口授せられたのだという。先生は丹念にカードを作る人であったから、調べた材料は相当に整理せられていたのでもあろうが、し・・・ 和辻哲郎 「露伴先生の思い出」
出典:青空文庫