・・・ 私は、この美に向上を感じ、愛のために戦わんとする精神は、理知そのものでもなければ、また主義そのものでもない。全く、詩的感激に他ならないと思うのです。 すべて、散文の裡に、若し、この詩的感激を見出さない記録があったなら、決してそれは・・・ 小川未明 「芸術は生動す」
・・・今日の文化が、兎も角もこゝまで至ったのには、この向上生活のいたした集積ともいうべきです。政治に依る強権は、一夜にして、社会の組織を一新することができるでありましょう。しかし、一夜に人間を改造することはできない。人間を改造するものは、良心の陶・・・ 小川未明 「作家としての問題」
・・・ 一方、人生の精神文化は、遅々として向上せず、大衆の趣味、理想は、依然として低くあるかぎり、たま/\良書が出版されても、その再版、三版は期し難いのであります。何人も知るごとく、必ずしもよく売れる本がいゝとはいわれない。大衆性を有するもの・・・ 小川未明 「書を愛して書を持たず」
・・・賢一は、ただ、その厚情に感謝しました。彼は負傷したことを故郷の親にも、老先生にも知らさなかったのです。孝経の中に身体髪膚受之父母。不敢毀傷孝之始也。と、いってあった。 彼は、自分の未だ至らぬのを心の中で、悔いたのでありました。・・・ 小川未明 「空晴れて」
・・・女性の特徴たる乳房その他の痕跡歴然たり、教育の参考資料だという口上に惹きつけられ、歪んだ顔で見た。ひそかに抱いていた性的なものへの嫌悪に逆に作用された捨鉢な好奇心からだった。自虐めいたいやな気持で楽天地から出てきたとたん、思いがけなくぱった・・・ 織田作之助 「雨」
・・・という名目で随分氾濫したし、「工場に咲いた花」「焼跡で花を売る少女」などという、いわゆる美談佳話製造家の流儀に似てはいないだろうか。 蛍の風流もいい。しかし、風流などというものはあわてて雑文の材料にすべきものではない。大の男が書くのであ・・・ 織田作之助 「大阪の憂鬱」
・・・比叡山――それを背景にして、紡績工場の煙突が煙を立登らせていた。赤煉瓦の建物。ポスト。荒神橋には自転車が通り、パラソルや馬力が動いていた。日蔭は磧に伸び、物売りのラッパが鳴っていた。 五 喬は夜更けまで街をほっつき歩・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・ 堯はその口上が割合すらすら出て来る番頭の顔が変に見え出した。ある瞬間には彼が非常な言い憎さを押し隠して言っているように見え、ある瞬間にはいかにも平気に言っているように見えた。彼は人の表情を読むのにこれほど戸惑ったことはないと思った。い・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・ 大森は名刺を受けとってお清の口上をみなまで聞かず、「オイ君、中西が来た!」「そしてどうした?」「いま君が聞いたとおりサ、留守だと言って帰したのだ。」「そいつは弱った。」「彼奴一週間後でなければ上京られないと言って来・・・ 国木田独歩 「疲労」
・・・ まもなくお清がはいって来て「江上さんから電話でございます。」 大森ははね起きた。ふらふらと目がくらみそうにしたのを、ウンとふんばって突っ立った時、彼の顔の色は土色をしていた。 けれども電話口では威勢のよい声で話をして、「それで・・・ 国木田独歩 「疲労」
出典:青空文庫