・・・ 猫が人間の喜びに相当するらしい感情の表現として、前足で足踏みをするのは、食肉獣の祖先がいい獲物を見つけてそれを引きむしる事をやったのとある関係があるのではないかという荒唐な空想が起こる。また一方原始的の食人種が敵人をほふってその屍の前・・・ 寺田寅彦 「備忘録」
・・・ 春田は十二三年前に五十余歳で喉頭癌のためにたおれた。私の見た義兄は、珍しく透明な、いい頭をもっていて、世態人情の奥の底を見透していた人のように思われる。それでいてほとんど俗世の何事も知らないような飄逸なふうがあった。 郷里の親戚や・・・ 寺田寅彦 「亮の追憶」
・・・ 森さんはまたお茶人で、東京の富豪や、京都の宗匠なぞに交遊があったけれど、高等学校も出ているので、宗匠らしい臭味は少しもなかった。 鴈治郎の一座と、幸四郎の組合せであるその芝居は、だいぶ前から町の評判になっていた。廓ではことにもその・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・社から高島貞喜がくるという通知を受けとったこと、その演説会と座談会をやるため、印刷工組合と友愛会支部とで出来ている熊本労働組合連合会の役員たちが宣伝をうけもつこと、高島の接待は第五高等学校の連中がやること等であった。しかし同じ新人会熊本支部・・・ 徳永直 「白い道」
・・・また高等学校にでも入学すれば柔術や何かをやらなければならない。わたくしにはそれが何よりもいやでならなかったのである。しかしわたくしの望みは許されなかった。そしてその年の冬、母の帰京すると共に、わたくしもまた船に乗った。公園に馬車を駆る支那美・・・ 永井荷風 「十九の秋」
・・・という彼の有名な La chanson d'automneの一篇の如きはヴェルレエヌが高踏派の詩人として最も幸福なる時代の作で、その時分には妻もあり友達もあり一定の職業もあった事を伝記の著者から教えられた。して見ると、「過ぎし日の事思出でて・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・俳諧師の群は瓢箪を下げて江東の梅花に「稍とゝのふ春の景色」を探って歩き、蔵前の旦那衆は屋根舟に芸者と美酒とを載せて、「ほんに田舎もましば焚く橋場今戸」の河景色を眺めて喜んだ。 最初河水の汎濫を防ぐために築いた向島の土手に、桜花の装飾を施・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・夏の夜の月円きに乗じて、清水の堂を徘徊して、明かならぬ夜の色をゆかしきもののように、遠く眼を微茫の底に放って、幾点の紅灯に夢のごとく柔かなる空想を縦ままに酔わしめたるは、制服の釦の真鍮と知りつつも、黄金と強いたる時代である。真鍮は真鍮と悟っ・・・ 夏目漱石 「京に着ける夕」
・・・津田君と余は大学へ入ってから科は違うたが、高等学校では同じ組にいた事もある。その時余は大概四十何人の席末を汚すのが例であったのに、先生はきぜんとして常に二三番を下らなかったところをもって見ると、頭脳は余よりも三十五六枚方明晰に相違ない。その・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・専門学校が第四高等中学校と改まると共に、四高の学生となったのである。四高では私にも将来の専門を決定すべき時期が来た。そして多くの青年が迷う如く私もこの問題に迷うた。特に数学に入るか哲学に入るかは、私には決し難い問題であった。尊敬していた或先・・・ 西田幾多郎 「或教授の退職の辞」
出典:青空文庫