・・・物価の高騰と歩調を合せないまでも、いく分ましの賃銀の条件になり、婦人は生理休暇ももてるようになった。 けれども、本当に自主的な自覚のある勤労者として、今の日本の、民主化とは皮肉悪辣に逆行している出版事情を観察した場合、働くものの鋭い見識・・・ 宮本百合子 「文化生産者としての自覚」
・・・過去四年の間、喉頭炎と思わされて来たものが肺であることも分った。医者は転地をすすめる。だが「家族と一緒に、彼らのこまごましたわずらわしさを背負って旅行したところで愉快ではない。」マリアはアトリエの隙間風を防ぐために修道僧のようなずきんつきの・・・ 宮本百合子 「マリア・バシュキルツェフの日記」
・・・ こういう細かい生活の実況であるにもかかわらず、総体としてラジオが益々大勢にきかれるようになって来ることには、一方で、出版物の高騰、書籍購買力の低下と伴い、一方では確に放送局で着眼しているとおりニュース価値の増大にあるだろうと思う。・・・ 宮本百合子 「「ラジオ黄金時代」の底潮」
・・・い日本、風土からして異る日本に求めたとしてもそれは無理である、ヨーロッパ文学の真価も、実にきわめて少数のもののみが理解し得るのであるとして、自分は、ひとりローマをみて来たものの苦しくよろこばしい回顧、高踏的な孤独感を抱きつつ、真直に日本の全・・・ 宮本百合子 「歴史の落穂」
・・・昭和十六年以来昂まって来ているインフレーションは、表面上の労働賃銀をぐんぐん上げて、その頃までは物価の昂騰と労働賃銀の増大とはほぼ釣り合いを保って上向きに来たのであった。けれども、この頃を境として生活費の膨脹は熱病患者の体温計のように止めよ・・・ 宮本百合子 「私たちの建設」
・・・二十五倍に物価は高騰した。これはマークの札束を鞄に入れて歩いて、街の乞食の小僧が「小父ちゃん一万マークお呉れよパンを買うんだから……」と言ったという一つ話が伝わっているドイツの大恐慌の七、八ヵ月以前の状態とほぼひとしい形を示している。最低二・・・ 宮本百合子 「私たちの建設」
・・・僕は画かきになる時、親爺が見限ってしまって、現に高等遊民として取扱っているのだ。君は歴史家になると云うのをお父うさんが喜んで承知した。そこで大学も卒業した。洋行も僕のように無理をしないで、気楽にした。君は今まで葛藤の繰延をしていたのだ。僕の・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・ここは山のかいにて、公道を距ること遠ければ、人げすくなく、東京の客などは絶て見えず、僅に越後などより来りて浴する病人あるのみ。宿とすべき家を問うにふじえやというが善しという。まことは藤井屋なり。主人驚きて簷端傾きたる家の一間払いて居らす。家・・・ 森鴎外 「みちの記」
・・・ と云いながら続けさまに叩頭した。勘次は落ちつけば落ちつく程、胸の底が爽やかに揺れて来た。が、秋三は勘次の気持を見破ると、盛り上って来た怒りが急に折れて侮辱の念に変って来た。と同時に安次の弱さに腹の底から憎悪を感じると、彼の掌はいきなり・・・ 横光利一 「南北」
・・・三 先生を高等学校の廊下で毎日のように見たころは、ただ峻厳な近寄り難い感じがした。友人たちと夕方の散歩によく先生の千駄木の家に行ったが、中へはいって行く勇気はどうしても出なかった。しかし先生に紹介された時の印象はまるで反対で・・・ 和辻哲郎 「夏目先生の追憶」
出典:青空文庫