・・・小豆島で汽船に乗って、甲板から、港を見かえすと、私には、港がぼやけていてよく分らなかった。その時には、私は眼鏡をはずしていたのだ。船は客がこんでいた。私は、親爺と二人で、荒蓆で荷造りをした、その荷物の上に腰かけていた。一と晩、一睡もしなかっ・・・ 黒島伝治 「入営前後」
・・・筋がありますから、その筋をたよって舟を潮なりにちゃんと止めまして、お客は将監――つまり舟の頭の方からの第一の室――に向うを向いてしゃんと坐って、そうして釣竿を右と左と八の字のように振込んで、舟首近く、甲板のさきの方に亙っている簪の右の方へ右・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・その公判すら傍聴を禁止された今日にあっては、もとより、十分にこれをいうの自由はもたぬ。百年ののち、たれかあるいはわたくしに代わっていうかも知れぬ。いずれにしても、死刑そのものはなんでもない。 これは、放言でもなく、壮語でもなく、かざりの・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・お君はフト電信柱に、「共産党の公判が又始まるぞ。ストライキとデモで我等の前衛を奪カンせよ!」と書かれているビラを見た。ストライキとデモで……お君は口の中でくりかえして見た……我等の前衛を奪カンせよ。――日本中の工場がみんなその為にストライキ・・・ 小林多喜二 「父帰る」
・・・「二年も前に入っている三・一五の連中さえまだ公判になっていないんだから、順押しに行くと随分長くなるぜ。」 俺はその時、フト硝子戸越しに、汚い空地の隅ッこにほこりをかぶっている、広い葉を持った名の知れない草を見ていた。四方の建物が高い・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・ 公判はこの九月から始まった。公判のことについては、その大体はもうお前も知っていることだから、詳しくは書かない。「共産党被告中の紅一点!」というので、毎日新聞がお前の妹のことをデカ/\と書いた。検事の求刑は山崎が三年、お前の妹が二年・・・ 小林多喜二 「母たち」
・・・ころ一面が真白にガバ/\に凍えている、夜中に静かになると、突然ビリン、ビリンともののわれる音がする、家をすっかり閉め切って、ストーヴをドシ/\燃しても、暑いのはストーヴに向いている身体の前の方だけで、後半方は冷え冷えとするのだ。窓硝子は部厚・・・ 小林多喜二 「母たち」
・・・直さんの家の廊下が船の甲板で、あの廊下から見える空が海の空で、家ごと動いているような気のして来ることも有りますよ」 とまた弟はおげんに言って見せて、更に言葉をつづけて、「姉さんも今度出ていらしって見て、おおよそお解りでしょう。直さん・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・の作者、HERBERT EULENBERG は、十九世紀後半のドイツの作家、あまり有名でない。日本のドイツ文学の教授も、字典を引かなければ、その名を知る能わず、むかし森鴎外が、かれの不思議の才能を愛して、その短篇、「塔の上の鶏」および「女の・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・私は紺絣の着物、それに袴をつけ、貼柾の安下駄をはいて船尾の甲板に立っていた。マントも着ていない。帽子も、かぶっていない。船は走っている。信濃川を下っているのだ。するする滑り、泳いでいる。川の岸に並び立っている倉庫は、つぎつぎに私を見送り、や・・・ 太宰治 「佐渡」
出典:青空文庫