・・・ 犬塚が教えて遣るという口吻で答えた。「どうしたもこうしたもないさ。あの連中の目には神もなけりゃあ国家もない。それだから刺客になっても、人を殺しても、なんのために殺すなんという理窟はいらないのだ。殺す目当になっている人間がなんの邪魔にな・・・ 森鴎外 「食堂」
・・・さも言いにくそうな口吻である。 長倉のご新造はいよいよ意外の思いをした。父はこの話をするとき、「お佐代は若過ぎる」と言った。また「あまり別品でなあ」とも言った。しかしお佐代さんを嫌っているのでないことは、平生からわかっている。多分父は吊・・・ 森鴎外 「安井夫人」
・・・ 大人か小児に物を言うような口吻である。美しい目は軽侮、憐憫、嘲罵、翻弄と云うような、あらゆる感情を湛えて、異様に赫いている。 私は覚えず猪口を持った手を引っ込めた。私の自尊心が余り甚だしく傷けられたので、私の手は殆ど反射的にこの女・・・ 森鴎外 「余興」
・・・すると、自分が棺を造っているのだと云うことも忘れて了って、だんだん加わって来る気持良い興奮の中に、間もなく彼は三つの箱をばらばらの板切れにして了った。そして、一時間の後には旭の紋の浮き上った四角い大きな箱棺が安次の小屋へ運ばれていた。・・・ 横光利一 「南北」
・・・沈んだ心持ちで書き始めたこの手紙をとりとめもなく書きつづけて行く内に、私は興奮して五体に力の充ちたことを感ずるようになりました。あなたは喜んでくださるでしょう。あなたに読んでいただくずっと前に、あなたに手紙を書いたという事だけで私にはもう効・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
・・・ 先生が明治初年の排仏毀釈の時代にいかに多くの傑作が焼かれあるいは二束三文に外国に売り払われたかを述べ立てた時などには、実際我々の若い血は沸き立ち、名状し難い公憤を感じたものである。が、あの煽動は決して策略的な煽動ではなかった。我々のう・・・ 和辻哲郎 「岡倉先生の思い出」
・・・総じて人心の腐敗に対して公憤を抱いているのである。過激思想ももちろんその中に含まれているであろうが、過激思想を退治しようとしている為政者の言行といえどもまたその中に含まれていないのではない。利のために働かず、任務自身のための任務をつくして来・・・ 和辻哲郎 「蝸牛の角」
・・・ ショオが社会に対して浴びせかける辛辣な皮肉の裏には、彼の理想の情熱と公憤とが燃え上がっている。しかし彼の製作にはしんみりした所がまるでない。彼は愛のあふれた人間をも、道に苦しむ人間をも、描くことができない。畢竟、彼は人類の姿を描き出す・・・ 和辻哲郎 「転向」
出典:青空文庫