・・・そこで彼等はまず神田の裏町に仮の宿を定めてから甚太夫は怪しい謡を唱って合力を請う浪人になり、求馬は小間物の箱を背負って町家を廻る商人に化け、喜三郎は旗本能勢惣右衛門へ年期切りの草履取りにはいった。 求馬は甚太夫とは別々に、毎日府内をさま・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・常子は夫を見つめたまま、震える声に山井博士の来診を請うことを勧め出した。しかし彼は熱心に細引を脚へからげながら、どうしてもその勧めに従わない。「あんな藪医者に何がわかる? あいつは泥棒だ! 大詐偽師だ! それよりもお前、ここへ来て俺の体・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・若狭の国府の侍でございます。名は金沢の武弘、年は二十六歳でございました。いえ、優しい気立でございますから、遺恨なぞ受ける筈はございません。 娘でございますか? 娘の名は真砂、年は十九歳でございます。これは男にも劣らぬくらい、勝気の女でご・・・ 芥川竜之介 「藪の中」
・・・ここにおいて青くなりて大に懼れ、斉しく牲を備えて、廟に詣って、罪を謝し、哀を乞う。 その夜また倶に夢む。この度や蒋侯神、白銀の甲冑し、雪のごとき白馬に跨り、白羽の矢を負いて親しく自ら枕に降る。白き鞭をもって示して曰く、変更の議罷成らぬ、・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・良人を殺せし妻ながら、諸君請う恕せられよ。あえて日光をあびせてもてこの憐むべき貞婦を射殺すなかれ。しかれどもその姿をのみ見て面を見ざる、諸君はさぞ本意なからむ。さりながら、諸君より十層二十層、なお幾十層、ここに本意なき少年あり。渠は活きたる・・・ 泉鏡花 「化銀杏」
・・・ 舌はここで爛れても、よその女を恋うるとは言えなかったのである。「どの、お写真。」 と朗に、しっとり聞えた。およそ、妙なるものごしとは、この時言うべき詞であった。「は、」 と載せたまま白紙を。「お持ちなさいまし。」・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・自分は駅員の集合してる所に到って、かねて避難している乳牛を引上げるについてここより本所停車場までの線路の通行を許してくれと乞うた。駅員らは何か話合うていたらしく、自分の切願に一顧をくれるものも無く、挨拶もせぬ。 いかがでしょうか、物の十・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・出来心で名刺を通じて案内を請うと、暫らくして夫人らしい方が出て来られて、「ドウいう御用ですか?」 何しろ社交上の礼儀も何も弁えない駈出しの書生ッぽで、ドンナ名士でも突然訪問して面会出来るものと思い、また訪問者には面会するのが当然で、謝絶・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・があるものだが、世事に馴れない青年や先輩の恩顧に渇する不遇者は感激して忽ち腹心の門下や昵近の知友となったツモリに独りで定めてしまって同情や好意や推輓や斡旋を求めに行くと案外素気なく待遇われ、合力無心を乞う苦学生の如くに撃退されるので、昨の感・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・自分は、どうしてもほかの乞食がするように、通る人ごとに頭を下げてあわれみを乞うことはできないが、ただ黙ってすわっていたら、なかには銭をくれてゆくものもないともかぎらないと、考えました。 あくる日、少年は朝早くから、そこにすわっていました・・・ 小川未明 「石をのせた車」
出典:青空文庫