・・・おまけに住宅は松の木陰になっていて、海さえ見えぬほどふさがっていました。「それからたくさんおもちゃを買ってちょうだいなママ」「でもたくさん買うだけのお金がないんですもの」 とおかあさんは言いながらひときわあわれにうなだれました。・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・「桃や李は、物を言わないのに木陰にはひとりでに道ができる。」昔の人はこんな事を言って侵略的宣伝を否定した。しかし今のように桃や李の数がふえてしまっては、この言葉はほんとうに時代遅れになったのかもしれない。それにしてもほんとうによい美しい・・・ 寺田寅彦 「神田を散歩して」
・・・そして二本並んだ木蔭へ足を投げ出して坐って吾等を招いた。「ドーダネ。マー一服やって縁起を直しては。巻煙草をやろか。」「ヤーありがとございます――。昨日は私の小さい網で六羽取りましたがのうし。」今に手並を見せると云う風で。 野菊が独り乱れ・・・ 寺田寅彦 「鴫つき」
・・・月夜に往来へ財布を落しておいて小蔭にかくれて見ている、通行人があたりを見廻わしてそれを拾おうとするときに、そっと手許の糸を手繰ると財布がひとりでするすると動き出すというような深刻な教育法をも実行した事があったようである。こういう巧智はしかし・・・ 寺田寅彦 「重兵衛さんの一家」
・・・運動場のすみの木陰では楽隊が稽古をやっているのをシナ人やインド人がのんきそうに立って聞いている。そのあとをシナ人の車夫が空車をしぼって坂をおりて行く。 船へ帰ると二等へ乗り込むシナ人を見送って、おおぜいの男女が桟橋に来ていた。そしていか・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・三の丸の石段の下まで来ると、向こうから美しい蝙蝠傘をさした女が子供の手を引いて木陰を伝い伝い来るのに会うた。町の良い家の妻女であったろう。傘を持った手に薬びんをさげて片手は子供の手を引いて来る。子供は大きな新しい麦藁帽の紐を・・・ 寺田寅彦 「花物語」
・・・ホテルのポルチエーが自分を小蔭へ引っぱって行って何かしら談判を始める。晩に面白いタランテラの踊りへ案内するから十時に玄関まで出て来いというらしかった。借りた室の寝台にはこの真冬に白い紗の蚊帳がかかっていた。日本やドイツの誰彼に年賀の絵端書を・・・ 寺田寅彦 「二つの正月」
・・・を長く清らかに引いて、呼び歩いていたようにも思うし、また木陰などに荷をおろして往来の人に呼びかけていたようにも思う。その声が妙に涼しいようでもあり、また暑いようでもあった。しかしその枇杷葉湯がいったいどんなものだか、味わったことはもちろん見・・・ 寺田寅彦 「物売りの声」
・・・野生の萩や撫子の花も、心して歩けば松の茂った木蔭の笹藪の中にも折々見ることができる。茅葺の屋根はまだ随処に残っていて、住む人は井戸の水を汲んで米を磨ぎ物を洗っている。半農半商ともいうべきそういう人々の庭には梅、桃、梨、柿、枇杷の如き果樹が立・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・近寄って見ると、松の枯木は広い池の中に立っていて、その木陰には半ば朽廃した神社と、灌木に蔽われた築山がある。庭は随分ひろいようで、まだ枯れずにいる松の木立が枯蘆の茂った彼方の空に聳えている。垣根はないが低い土手と溝とがあるので、道の此方から・・・ 永井荷風 「元八まん」
出典:青空文庫