・・・ 自分は次第に激しく、自分の生きつつある時代に対して絶望と憤怒とを感ずるに従って、ますます深く松の木蔭に声もなく居眠っている過去の殿堂を崇拝せねばならぬ。 欄間や柱の彫刻、天井や壁の絵画を一ツ一ツに眺めよう。 自分はここにわれら・・・ 永井荷風 「霊廟」
・・・池は大きくはない、出来損いの瓜の様に狭き幅を木陰に横たえている。これも太古の池で中に湛えるのは同じく太古の水であろう、寒気がする程青い。いつ散ったものか黄な小さき葉が水の上に浮いている。ここにも天が下の風は吹く事があると見えて、浮ぶ葉は吹き・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・あのアポルロの石像のある処の腰掛に腰を掛ける奴もあり、井戸の脇の小蔭に蹲む奴もあり、一人はあのスフィンクスの像に腰を掛けました。丁度タクススの樹の蔭になって好くは見えません。主人。皆な男かい。家来。いえ、男もいますし女もいます。乞食・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・いかがはせんと並松の下に立ちよれども頼む木蔭も雨の漏りけり。ままよと濡れながら行けばさきへ行く一人の大男身にぼろを纏い肩にはケットの捲き円めたるを担ぎしが手拭もて顔をつつみたり。うれしやかかる雨具もあるものをとわれも見まねに頬冠りをなんしけ・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
胡坐 ああ 草原に出で ゆっくりと楡の木蔭 我が初夏の胡坐を組もう。 空は水色の襦子を張ったよう 白雲が 湧いては消え 湧いては消え 飽きない自然の模様を描く。 遠くに泉でもあるか・・・ 宮本百合子 「心の飛沫」
・・・樟の木蔭に、附属家屋のペンキを剥して、職人が一人働いている。私はその男に尋ね、灌木の茂みをわけて通じる石段を更に半丁ばかり登った。頂上で土地が展け、中央に十字架の基督像を繞って花壇がある。雲の断れ目から照り出した初夏の日光に、ゼラニュウムや・・・ 宮本百合子 「長崎の印象」
・・・山歩きをしているうちに、偶然見つけた素晴らしい木蔭、愛すべき小憩み岩、そんなものは先へ先へと何人かの足が廻って既に札を建ててしまう。その癖、今、都会人が散策する山径が、太古は箒川の川底に沈んでいただろう水成岩であること、その知識によって自然・・・ 宮本百合子 「夏遠き山」
・・・ つめたい風が渡って居そうに暗い木陰に、忘られた西洋葵の焔の様な花と、高々と聳え立って居る青桐の葉の黄金の網とが、眠りに落ち様とする沈んだ重い種々の者を目さめるまでに引きたてて、まだ虫の音のまばらな、ひると、よるとのとけ合った一時を、思・・・ 宮本百合子 「ひととき」
出典:青空文庫