・・・ 温かき心 中禅寺から足尾の町へ行く路がまだ古河橋の所へ来ない所に、川に沿うた、あばら家の一ならびがある。石をのせた屋根、こまいのあらわな壁、たおれかかったかき根とかき根には竿を渡しておしめやらよごれた青い毛布やらが・・・ 芥川竜之介 「日光小品」
・・・そして病気が重ってから、なけなしの金を出してして貰った古賀液の注射は、田舎の医師の不注意から静脈を外れて、激烈な熱を引起した。そしてU氏は無資産の老母と幼児とを後に残してその為めに斃れてしまった。その人たちは私たちの隣りに住んでいたのだ。何・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・が、仏法僧のなく音覚束なし、誰に助けらるるともなく、生命生きて、浮世のうらを、古河銅山の書記になって、二年ばかり、子まで出来たが、気の毒にも、山小屋、飯場のパパは、煩ってなくなった。 お妻は石炭屑で黒くなり、枝炭のごとく、煤けた姑獲鳥の・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・渋味のある朱色でいや味のない古雅な色がなつかしい。省作は玉から連想して、おとよさんの事を思い出し、穏やかな顔に、にこりと笑みを動かした。「あるある、一人ある。おとよさんが一人ある」 省作はこうひとり言にいって、竜の髭の玉を三つ四つ手・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・さちよが、名前を言うと、おお、と古雅に合点して、お噂、朝太郎から承って居ります、何やら、会があるとかで、ひるから出かけて居りますが、もう、そろそろ、帰りましょう、おあがりなさい、と小さい老母は、やさしく招いた。顔も、手も、つやつやして、上品・・・ 太宰治 「火の鳥」
・・・青や朱や黄の顔料の色の美しいあざやかさと、古雅な素朴な筆致とは思いのほかのものであった。そこには少しもある暗い恐ろしさがなかった。 少し喘息やみらしい案内者が No time, Sir ! と追い立てるので、フォーラムの柱の列も陳列館の・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・それがために物語はいっそう古雅な詩的な興趣を帯びている。 日本に武士道があるように、北欧の乱世にはやはりそれなりの武士道があった。名誉や信仰の前に生命を塵埃のように軽んじたのはどこでも同じであったと見える。女にも烈婦があった。そしてどこ・・・ 寺田寅彦 「春寒」
・・・たると広い道路は二筋に分れ、一ツは吉野橋をわたって南千住に通じ、一ツは白鬚橋の袂に通じているが、ここに瓦斯タンクが立っていて散歩の興味はますますなくなるが、むかしは神明神社の境内で梅林もあり、水際には古雅な形の石燈籠が立っていたが、今は石炭・・・ 永井荷風 「水のながれ」
・・・またあるものは自家の紋章を刻み込んでその中に古雅な文字をとどめ、あるいは盾の形を描いてその内部に読み難き句を残している。書体の異なるように言語もまた決して一様でない。英語はもちろんの事、以太利語も羅甸語もある。左り側に「我が望は基督にあり」・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・それは意識的にしたのでなく、偶然の結果からして、年代の錆がついて出来てるのだった。それは古雅で奥床しく、町の古い過去の歴史と、住民の長い記憶を物語っていた。町幅は概して狭く、大通でさえも、漸く二、三間位であった。その他の小路は、軒と軒との間・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
出典:青空文庫