・・・翌日猿が馬場という峠にかかって来ると、何にしろ呼吸病にかかっている余には苦しい事いうまでもない。少しずつ登ってようよう半腹に来たと思う時分に、路の傍に木いちごの一面に熟しているのを見つけた。これは意外な事で嬉しさもまた格外であったが、少し不・・・ 正岡子規 「くだもの」
・・・ またその桔梗いろの冷たい天盤には金剛石の劈開片や青宝玉の尖った粒やあるいはまるでけむりの草のたねほどの黄水晶のかけらまでごく精巧のピンセットできちんとひろわれきれいにちりばめられそれはめいめい勝手に呼吸し勝手にぷりぷりふるえました。 ・・・ 宮沢賢治 「インドラの網」
・・・人間として成長のためには、本当に愛情を育ててゆけるためにも、社会生活のひろさの中に呼吸して職業をも持って結婚生活をしてゆきたいと思う。そういう希望も現在では女の本心から抱かれていると思う。ところが、職業の種類で結婚のあいてにめぐり合うことが・・・ 宮本百合子 「新しい船出」
・・・リアリズムの彷徨の一歩と現代文学に於ける自我の喪失とは、胡弓とその弓とのような関係で極めて時代的な音調を立て始めたのである。 さて、文芸復興の声は盛んであるが、果して文芸は当時復興したであろうか。声が響いているばかりで、現実には新たな文・・・ 宮本百合子 「昭和の十四年間」
・・・ 雨なんか降ると主婦と娘の、琴と胡弓の合奏をきかしてもらいましたっけ。 でもまあ一人で行くのに温泉は適しませんねえ。」 こんな事を云いながら急に落つかない気持になって居た。 二人はこの頃の海は見つめてると目を悪くするから気を・・・ 宮本百合子 「蛋白石」
・・・ 黒人の太い、しかしどこかに胡弓を弾くような響のある淋しい声。 ○浅青い色の大空と煉瓦色の土と、緑と木との対照。 ○濁った河の水は、日光の下で、紫色に光る。 ○とんび、低くゆっくりと飛ぶ。 ○柳も、重い、鈍い緑、・・・ 宮本百合子 「無題(二)」
・・・』 かあいそうに老人は、憤怒と恐怖とで呼吸をつまらした。『そんな嘘が、そんな嘘が――正直ものを誣るような、そんな嘘が言えるものなら!』 かれは十分弁解した、かれは信ぜられなかった。 かれはマランダンと立ち合わされた。マランダ・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・ひゅうひゅうと云うのは、切られた気管の疵口から呼吸をする音であった。お蝶の傍には、佐野さんが自分の頸を深くえぐった、白鞘の短刀の柄を握って死んでいた。頸動脉が断たれて、血が夥しく出ている。火鉢の火には灰が掛けて埋めてある。電灯には血の痕が附・・・ 森鴎外 「心中」
・・・ 十月に学問所の明教堂が落成して、安井家の祝筵に親戚故旧が寄り集まったときには、美しくて、しかもきっぱりした若夫人の前に、客の頭が自然に下がった。人にからかわれる世間のよめさんとは全く趣をことにしていたのである。 翌年仲平が三十・・・ 森鴎外 「安井夫人」
・・・これが、この花園の中で呼吸している肺臓の特種な運動の体系であった。 五 ここの花園の中では、新鮮な空気と日光と愛と豊富な食物と安眠とが最も必要とされていた。ここでは夜と雲とが現われない限り、病舎に影を投げかけるも・・・ 横光利一 「花園の思想」
出典:青空文庫