・・・ 誰だか禿山の向うを通るとみえて、から車の音が虚空に響きわたッた……」 これはロシアの野であるが、我武蔵野の野の秋から冬へかけての光景も、およそこんなものである。武蔵野にはけっして禿山はない。しかし大洋のうねりのように高低起伏してい・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・すると二人が今来た道の方から空車らしい荷車の音が林などに反響して虚空に響き渡って次第に近づいて来るのが手に取るように聞こえだした。『しばらくすると朗々な澄んだ声で流して歩く馬子唄が空車の音につれて漸々と近づいて来た。僕は噴煙をながめたま・・・ 国木田独歩 「忘れえぬ人々」
・・・ハハハハ、氷を弄べば水を得るのみ、花の香は虚空に留まらぬと聞いていたが、ほんとにそうだ。ハハハハ。どれどれ飯にしようか、長話しをした。」と語り了って、また高く笑った。今は全く顔付も冴えざえとした平生の主人であった。細君は笑いながら聞き了・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・ただ狂わしき雷、荒ぶる雨、怒れる風の声々の乱れては合い、合いてはまた乱れて、いずれがいずれともなく、ごうごうとして人の耳を驚かし魂をおびやかすが中に、折々雲裂け天破れて紫色の光まばゆく輝きわたる電魂の虚空に跳り閃く勢い、見る眼の睛をも焼かん・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・早くいッて見れば空漠として広い虚空の中に草の蔓は何故無法に自由自在に勝手に這い回らないのだろう。ソコニハ自然の約束があるから即ち一定の有様をなして、左り巻なら左り巻、右巻ならば右巻でちゃんと螺旋をなして這いまわるのだ。虚空に抵抗物は少いのだ・・・ 幸田露伴 「ねじくり博士」
・・・大なる石は虚空より唸りの風音をたて隕石のごとく速かに落下し来り直ちに男女を打ちひしぎ候。小なるものは天空たかく舞いあがり、大虚を二三日とびさまよひ候。」 私はそれを一字一字清書しながら、天才を実感して戦慄した。私のこれまでの生涯に於・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・長い細い触角でもって虚空を手さぐり、ほのかに、煙くらいの眠りでも捜し当てたからには、逃がすものか、ぎゅっとひっ捕えて、あわてて自分のふところを裁ち割り、無理矢理そのふところの傷口深く、睡眠の煙を詰め込んで、またも、ゆらゆら触角をうごかす。眠・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・脱ぎ捨てる時も、ズボンのポケットに両手をつっこんだままで、軽く虚空を蹴ると、すぽりと抜ける。水溜りでも泥路でも、平気で濶歩できる。重宝なものである。なぜそれをはいて歩いては、いけないのか。けれどもその親切な友人は、どうにも、それは異様だから・・・ 太宰治 「服装に就いて」
・・・右の腕を、虚空を斫るように、猛烈に二三度振って、自分の力量と弾力との衰えないのを試めして見て、独り自ら喜んだ。それから書いたものをざっと読んで見た。かなりの出来である。格別読みづらくはない。いよいよ遣らなくてはならないとなると、遣れるものだ・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・ 記紀にはないが、天手力男命が、引き明けた岩戸を取って投げたのが、虚空はるかにけし飛んでそれが現在の戸隠山になったという話も、やはり火山爆発という現象を夢にも知らない人の国には到底成立しにくい説話である。 誤解を防ぐために一言してお・・・ 寺田寅彦 「神話と地球物理学」
出典:青空文庫