・・・意中の美人はねんごろに予を戸口にむかえて予の手のものを受けとる。見かけによらず如才ない老爺は紅葉を娘の前へだし、これごろうじろ、この紅葉の美しさ、お客さまがぜひお嬢さんへのおみやげにって、大首おって折ったのぞなどいう。まだ一度も笑顔を見せな・・・ 伊藤左千夫 「河口湖」
・・・ この寛闊な気象は富有な旦那の時代が去って浅草生活をするようになってからも失せないで、画はやはり風流として楽んでいた、画を売って糊口する考は少しもなかった。椿岳の個性を発揮した泥画の如きは売るための画としてはとても考え及ばないものである・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・妻子を抱えているものは勿論だが、独身者すらも糊口がし兼ねて社長の沼南に増給を哀願すると、「僕だって社からは十五円しか貰わないよ」というのが定った挨拶であった。増給は魯か、ドンナ苦しい事情を打明けられても逆さに蟇口を振って見せるだけだ。「十五・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・不義を憎む事蛇蝎よりも甚だしく、悪政暴吏に対しては挺身搏闘して滅ぼさざれば止まなかった沼南は孤高清節を全うした一代の潔士でもありまた闘士でもあった。が、沼南の清節は袍弊袴で怒号した田中正造の操守と違ってかなり有福な贅沢な清貧であった。沼南社・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・すると、一人の色の白い女が戸口に立っていました。 女はろうそくを買いにきたのです。おばあさんは、すこしでもお金がもうかることなら、けっして、いやな顔つきをしませんでした。 おばあさんは、ろうそくの箱を取り出して女に見せました。そのと・・・ 小川未明 「赤いろうそくと人魚」
・・・ 俺のように年寄った母親が有うも知ぬが、さぞ夕暮ごとにいぶせき埴生の小舎の戸口に彳み、遥の空を眺ては、命の綱のかせぎにんは戻らぬか、愛し我子の姿は見えぬかと、永く永く待わたる事であろう。 さておれの身は如何なる事ぞ? おれも亦まツこの通・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・ 花売りの声が戸口に聞こえたときも彼は眼を覚ました。新鮮な声、と思った。榊の葉やいろいろの花にこぼれている朝陽の色が、見えるように思われた。 やがて、家々の戸が勢いよく開いて、学校へ行く子供の声が路に聞こえはじめた。女はまだ深く睡っ・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・われらみな十蔵二郎を救うことぞと思い、十蔵早くせよと叫び、戸口をきっと見て二人の姿の飛び出ずるをまちぬ。瓦降り壁落つ。われらみな樫の老木を楯にしてその陰にうずくまりぬ。四辺の家々より起こる叫び声、泣き声、遠かたに響く騒然たる物音、げにまれな・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・熱烈と孤高と純直と、そして大衆への哭くが如きの愛とを持った、日本におけるまれに見る超人的性格者であった。 五 立正安国論 日蓮は鎌倉に登ると、松葉ヶ谷に草庵を結んで、ここを根本道場として法幡をひるがえし、彼の法戦を始・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・ 寝室の窓から、彼が来たことを見ていた三十すぎのユーブカをつけた女は戸口へ廻って内から掛金をはずした。「急ぐんだ、爺さんはいないか。」「おはいり。」 女は、居るというしるしに、うなずいて見せて、自分の身を脇の箱を置いてある方・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
出典:青空文庫