・・・夕照りうららかな四囲の若葉をその水面に写し、湖心寂然として人世以外に別天地の意味を湛えている。 この小湖には俗な名がついている、俗な名を言えば清地を汚すの感がある。湖水を挟んで相対している二つの古刹は、東岡なるを済福寺とかいう。神々しい・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・ 月のない闇黒の一夜、湖心の波、ひたひたと舟の横腹を舐めて、深さ、さあ五百ひろはねえずらよ、とかこの子の無心の答えに打たれ、われと、それから女、凝然の恐怖、地獄の底の細き呼び声さえ、聞えて来るような心地、死ぬることさえ忘却し果てた、・・・ 太宰治 「二十世紀旗手」
・・・ 池の端を描いた清親の板画は雪に埋れた枯葦の間から湖心遥に一点の花かとも見える弁財天の赤い祠を望むところ、一人の芸者が箱屋を伴い吹雪に傘をつぼめながら柳のかげなる石橋を渡って行く景である。この板画の制作せられたのは明治十二三年のころであ・・・ 永井荷風 「上野」
出典:青空文庫