・・・ 一体、孫八が名だそうだ、この爺さんは、つい今しがた、この奥州、関屋の在、旧――街道わきの古寺、西明寺の、見る影もなく荒涼んだ乱塔場で偶然知己になったので。それから――無住ではない、住職の和尚は、斎稼ぎに出て留守だった――その寺へ伴われ・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・青き袷に黒き帯して瘠せたるわが姿つくづくとみまわしながら寂しき山に腰掛けたる、何人もかかる状は、やがて皆孤児になるべき兆なり。 小笹ざわざわと音したれば、ふと頭を擡げて見ぬ。 やや光の増し来れる半輪の月を背に、黒き姿して薪をば小脇に・・・ 泉鏡花 「清心庵」
・・・ 蝮の首を焼火箸で突いたほどの祟はあるだろう、と腹じゃあ慄然いたしまして、爺はどうしたと聞きましたら、と手柄顔に、お米は胸がすいたように申しましたが。 なるほど、その後はしばらくこの辺へは立廻りません様子。しばらく影を見ませんか・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・ 鼻のさきに漂う煙が、その頸窪のあたりに、古寺の破廂を、なめくじのように這った。「弱え人だあ。」「頼むよ――こっちは名僧でも何でもないが、爺さん、爺さんを……導きの山の神と思うから。」「はて、勿体もねえ、とんだことを言うなっ・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・もっとも孤児同然だとのこと、都にしかるべき身内もない。そのせいか、沈んだ陰気な質ではないが、色の、抜けるほど白いのに、どこか寂しい影が映る。膚をいえば、きめが細く、実際、手首、指の尖まで化粧をしたように滑らかに美しい。細面で、目は、ぱっちり・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・――ずり落ちた帯の結目を、みしと踏んで、片膝を胴腹へむずと乗掛って、忘八の紳士が、外套も脱がず、革帯を陰気に重く光らしたのが、鉄の火箸で、ため打ちにピシャリ打ちピシリと当てる。八寸釘を、横に打つようなこの拷掠に、ひッつる肌に青い筋の蜿るのさ・・・ 泉鏡花 「鷭狩」
・・・――私は孤児だが、かつて志を得たら、東京へ迎えます。と言ううちに、両親はなくなりました。その親たちの位牌を、……上野の展覧会の今最中、故郷の寺の位牌堂から移して来たのが、あの、大な革鞄の中に据えてあります。その前で、謹んで言うのです。――お・・・ 泉鏡花 「鷭狩」
・・・ここで主人の云ったのは、それは浮島禅師、また桃園居士などと呼ばれる、三島沼津を掛けた高持の隠居で。……何不足のない身の上とて、諸芸に携わり、風雅を楽む、就中、好んで心学一派のごとき通俗なる仏教を講じて、遍く近国を教導する知識だそうである。が・・・ 泉鏡花 「半島一奇抄」
・・・「馬を見て鼠……何だか故事がありそうで変ですが――はあ、そうすると、同時に、鼠が馬に見えないとも限りませんかしら。」「は?」「鼠が馬に見えるかも知れませんが、どうでしょう。」「いや、おっしゃると。」 主人は少し傾いたが、・・・ 泉鏡花 「半島一奇抄」
・・・ 謙三郎もまた我国徴兵の令に因りて、予備兵の籍にありしかば、一週日以前既に一度聯隊に入営せしが、その月その日の翌日は、旅団戦地に発するとて、親戚父兄の心を察し、一日の出営を許されたるにぞ、渠は父母無き孤児の、他に繋累とてはあらざれども、児と・・・ 泉鏡花 「琵琶伝」
出典:青空文庫