・・・この十蔵が事は貴嬢も知りたもうまじ、かれの片目は奸なる妻が投げ付けし火箸の傷にて盲れ、間もなく妻は狂犬にかまれて亡せぬ。このころよりかれが挙動に怪しき節多くなり増さりぬ、元よりかれは世の常の人にはあらざりき。今は三十五歳といえど子もなく兄弟・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・されば小供への土産にと城下にて買いし菓子の袋開きてこの孤児に分つ母親もすくなからざりし。父は見知らぬ風にて礼もいわぬが常なり、これも悲しさのあまりなるべしと心にとむる者なし。「かくて二年過ぎぬ。この港の工事なかばなりしころ吾ら夫婦、島よ・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・ この徳二郎という男はそのころ二十五歳ぐらい、屈強な若者で、叔父の家には十一二の年から使われている孤児である。色の浅黒い、輪郭の正しい立派な男、酒を飲めば必ず歌う、飲まざるもまた歌いながら働くという至極元気のよい男であった。いつも楽しそ・・・ 国木田独歩 「少年の悲哀」
・・・祖母の亡くなったのは十五の春、母はその秋に亡くなりましたから私は急に孤児になってしまい、ついに叔母の家に引き取られたのでございます。十八の年まで淋しい山里にいて学問という学問は何にもしないでただ城下の中学校に寄宿している従兄弟から送って寄こ・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・ すなわち学校、孤児院の経営、雑誌の発行、あるいは社会運動、国民運動への献身、文学的精進、宗教的奉仕等をともにするのである。二つ夫婦そらうてひのきしんこれがだいいちものだねや これは天理教祖みき子の数え歌だ。子を・・・ 倉田百三 「愛の問題(夫婦愛)」
・・・――俺だって誰れも省みて呉れん孤児じゃないんだ! それを、どうしてこんな冷たいシベリアへやって来たんだ! どうして!……彼は嘆息した。と、それと一緒に、又哀れげな呻きが出てきた。「どいつも、こいつも弱みその露助みたいに呻きやがって!」見・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・すばしっこい火箸のような、痩せッこつの七五郎が、板の橋を渡って公会堂に様子をさぐりに、ぴょん/\はねとんで行った。「おい、のんでるぞ、のんでるぞ!」 踏みつけられたような笑い方をしながら七五郎は引っかえして来た。「何に、のんでる・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
・・・どこまでも固辞した。 清三夫婦が日曜日に出かけると、両人は寛ろいでのびのびと手を長くして寝た。誰れ憚る者がいないのが嬉しかった。「留守ごとに牡丹餅でもこしらえて食うかいの。」とばあさんは云い出した。「お。」「毎日米の飯ばかり・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
・・・彼女はそこに置いてある火鉢から細い真鍮の火箸を取って見て、曲げるつもりもなくそれを弓なりに折り曲げた。「おばあさん――またここのお医者様に怒られるぞい」 と三吉は言って、不思議そうにおげんの顔を見ていたが、やがて子供らしく笑い出した・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・ 名誉職は、そこまで語って、それから火鉢の火を火箸でいじくりながら、しばらく黙っていた。「で? どうしたのです。」と私は、さいそくした。「いたのですか?」「いるも、いないも、」と言って、彼は火箸をぐさと灰に深く突き刺し、「二・・・ 太宰治 「嘘」
出典:青空文庫