・・・保吉は巻煙草に火をつけながら、木蘭の個性を祝福した。そこへ石を落したように、鶺鴒が一羽舞い下って来た。鶺鴒も彼には疎遠ではない。あの小さい尻尾を振るのは彼を案内する信号である。「こっち! こっち! そっちじゃありませんよ。こっち! こっ・・・ 芥川竜之介 「保吉の手帳から」
・・・ 従来の言説においては私の個性の内的衝動にほとんどすべての重点をおいて物をいっていた。各自が自己をこの上なく愛し、それを真の自由と尊貴とに導き行くべき道によって、突き進んで行くほかに、人間の正しい生活というものはありえないと私自身を発表・・・ 有島武郎 「想片」
・・・何でも嫌いで皆手細工であった。紙入や銭入も決して袋物屋の出来合を使わないで、手近にあり合せた袋で間に合わしていた。何でも個性を発揮しなければ気が済まないのが椿岳の性分で、時偶市中の出来合を買って来ても必ず何かしら椿岳流の加工をしたもんだ。・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ 個性を尊重しなければならぬのは、たとえ、集団的生活に於て、組織が主とされても、所詮、創造は、個人の天分に待たなければならないからです。これを考うる時に今日の画一教育が、良いとは言われないのであります。けれど、階梯として何うしても児童等・・・ 小川未明 「男の子を見るたびに「戦争」について考えます」
・・・と、あまり自分達に個性がなさすぎるのが悟られて、反動的に、自己憎悪を感じたのでありました。 事実、面白いといわれたので、自分に少しも面白くないものがあります。その文体が、そこにあらわれた趣味、考え方が、どうしても、ぴたりと心に合致し・・・ 小川未明 「書を愛して書を持たず」
・・・ しかし、科学的知識のみを基礎とした読物は、たとえ好奇心と興味とを多分に持たせることはできても、個性や、特質や、体験ということを無視するが故に、いまだこれをもって真の理解に到達したとはいえないのであります。そしてその暁は、かの架空的なお・・・ 小川未明 「新童話論」
・・・もし其処に似而非現実主義というものがあると仮定すれば、それは自己のない生活である。個性のない生活である。而してそうした生活から生れる所の芸術は、形式の芸術、模倣の芸術である。 今の文壇が平凡だというのは、必ずしも作者が平凡を以て主義とし・・・ 小川未明 「囚われたる現文壇」
・・・広い会所の中は揉合うばかりの群衆で、相場の呼声ごとに場内は色めきたつ。中にはまた首でも縊りそうな顔をして、冷たい壁に悄り靠れている者もある。私もそういう人々と並んで、さしあたり今夜の寝る所を考えた。場内の熱狂した群衆は、私の姿など目にも留め・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・ しかし、それとも考えようによっては、京都弁そのものが結局豊富でない証拠で、彼女たちはただ教えられた数少い言葉を紋切型のように使っているだけで、ニュアンスも変化があるといえばいえるものの、けっして個性的な表現ではなく、又大阪弁の「ややこ・・・ 織田作之助 「大阪の可能性」
・・・この一句には坂田でなければ言えないという個性的な影像があり、そして坂田という人の一生を宿命的に象徴しているともいえよう。苦労を掛けた糟糠の妻は「阿呆な将棋をさしなはんなや」という言葉を遺言にして死に、娘は男を作って駈落ちし、そして、一生一代・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
出典:青空文庫