・・・ 僕は誰にでも急っつかれると、一層何かとこだわり易い親譲りの片意地を持合せていた。のみならずそのボオトの残した浪はこちらの舟ばたを洗いながら、僕の手をカフスまでずぶ濡れにしていた。「なぜ?」「まあ、なぜでも好いから、あの女を見給・・・ 芥川竜之介 「湖南の扇」
・・・わたしは彼女を絞め殺すことに何のこだわりも感じなかった。いや、むしろ当然のことを仕遂げる快さに近いものを感じていた。彼女はとうとう目をつぶったまま、いかにも静かに死んだらしかった。――こう云う夢から醒めたわたしは顔を洗って来た後、濃い茶を二・・・ 芥川竜之介 「夢」
・・・まず、平生通りの調子でこだわりのない声を出したかの女の酔った様子が、なよなよした優しい輪廓を、月の光で地上にまでも引いている。「また青木だろう?」「いいえ、これから行くの」「じゃア、早く行きゃアがれ!」僕はわざとひどくかの女を突・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ いま、多くの人々は、自己の周囲についてのみ、あまりにこだわり過ぎていまいか。そして、あまねく人間に対する考察に於て、また、同じく愛し合わなければならぬ筈のものを、忘れてしまっているのではあるまいか。 自分達の生活――それは、実利的・・・ 小川未明 「人間否定か社会肯定か」
・・・そんなことにも私自身がこだわりを持っていました。二 或る日Oが訪ねてくれました。Oは健康そうな顔をしていました。そして種々元気な話をしてゆきました。―― Oは私の机の上においてあった紙に眼をつけました。何枚もの紙の上に ・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
・・・然し先方は何のこだわりも無く、身を此方へ近づけると同時に、何の言葉も無く手をさしのべて、男の手を探り取ってやさしく握って中へ引入れんとした。触った其手は暖かであった、なよやかであった。其力はやわらかであった、たしかに鄙しく無い女の手であった・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・そこに、なんのこだわりもなかった。日記は、そのまま小説であり、評論であり、詩であった。 ロマンスの洪水の中に生育して来た私たちは、ただそのまま歩けばいいのである。一日の労苦は、そのまま一日の収穫である。「思い煩うな。空飛ぶ鳥を見よ。播か・・・ 太宰治 「一日の労苦」
・・・まさか私は、その話相手の女に、惚れるの惚れられるの、そんな馬鹿な事は考えませんが、どうも何だか心にこだわりが出て来るのです。窮屈なんです。どうしても、男同士で話合うように、さっぱりとはまいりません。自分の胸の中のどこかに、もやもやと濁ってい・・・ 太宰治 「嘘」
・・・嘉七がはっきりかず枝とわかれてからも、嘉七と、なんのこだわりもなく酒をのんで遊びまわった。それでも、時おり、「かず枝も、かあいそうだね。」 と思い出したようにふっと言い、嘉七は、その都度、心弱く、困った。・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・長女のマサ子も、長男の義太郎も、何か両親のそんな気持のこだわりを敏感に察するものらしく、ひどくおとなしく代用食の蒸パンをズルチンの紅茶にひたしてたべています。「昼の酒は、酔うねえ。」「あら、ほんとう、からだじゅう、まっかですわ。」・・・ 太宰治 「おさん」
出典:青空文庫