・・・相手は聴かなかった。雨は降るし、遅くもなっているし、もうどうしても廃すのだ。その代り近いうちに填合せをしようと云うのである。相手はこんな言いわけをして置いて、弦を離れた矢のように駆け出した。素足で街道のぬかるみを駆けるので、ぴちゃぴちゃ音が・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・他の文句など全く不必要なこんなときでも、まだ何とかかとか人は云い出す運動体だということ、停ったかと思うと直ちに動き出すこのルーレットが、どの人間の中にも一つずつあるという鵜飼い――およそ誰でも、自分が鵜であるか、鵜の首を握っている漁夫である・・・ 横光利一 「鵜飼」
・・・あの男のどこが、こんなに己の注意を惹いたのだか、己の部屋に這入っていた時間が余り短かったので、なんとも判断しにくい。目は青くて、妙な表情をしていた。なんでもずっと遠くにある物を見ているかと思うように、空を見ていた。悲しげな目というでもない。・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・一体気分が好くないのだから、こんなことを見付けて見れば、気はいよいよ塞いで来る。紙巻烟草に火を附けて見たが、その煙がなんともいえないほど厭になったので、窓から烟草を、遠くへ飛んで行くように投げ棄てた。外は色の白けた、なんということもない三月・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
・・・徳蔵おじがこんな噂をするのを聞でもしようもんなら、いつも叱り止るので、僕なんかは聞ても聞流しにしちまって人に話した事もありません。徳蔵おじは大層な主人おもいで格別奥さまを敬愛している様子でしたが、度々林の中でお目通りをしてる処を木の影から見・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・ あなたに愚痴をこぼしたあとでこんな事をいうのは少しおかしいかも知れません。しかし私はあなたに愚痴をこぼしている内に自然こういう事を言いたい気持ちになって来たのです。六 私はどんなに自分に失望している時でも、やはり心の底・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
出典:青空文庫