・・・それにしても、この客引きのいる宿屋は随分さびれて、今夜もあぶれていたに違いあるまいと思った。あとでこの温泉には宿屋はたった一軒しかないことを知った。 右肩下りの背中のあとについて、谷ぞいの小径を歩きだした。 しかし、ものの二十間も行・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・明らかに商売に飽いた風で、酔うと気が大きくなり、自然足は遊びの方に向いた。紺屋の白袴どころでなく、これでは柳吉の遊びに油を注ぐために商売をしているようなものだと、蝶子はだんだん後悔した。えらい商売を始めたものやと思っているうちに、酒屋への支・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・らという気がされて来て、彼は言いようのない厭悪と不安な気持になって起ちあがろうとしたが、また腰をおろして、「それでね、実は、君に一寸相談を願いたいと思って来たんだがね、どんなもんだろう、どうしても今夜の七時限り引払わないと畳建具を引揚げ・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・ やれやれ眠って呉れた、と二昼夜眠らなかった私は今夜こそ一寸でも眠らねばならぬと考えて、毛布にくるまり病人の隣へ横になりましたがちっとも眠れません。ふと私は、一度脈をはかってやろうと思って病人の手を取ってみましたが、脈は何処に打って居る・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・そこを眺めながら、彼は今夜カフェで話し合った青年のことを思い出していた。自分が何度誘ってもそこへ行こうとは言わなかったことや、それから自分が執こく紙と鉛筆で崖路の地図を書いて教えたことや、その男の頑なに拒んでいる態度にもかかわらず、彼にも自・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・たすべての条件を具えたものには、早速払い下げを許可するが、そうでないものをば一斉に書面を却下することとし、また相当の条件を具えた書面が幾通もあるときは、第一着の願書を採用するという都合らしく、よっては今夜早速に、それらの相談を極めておき、い・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・ 他の下宿に移ってまもなくの事でありました、木村が、今夜、説教を聞きに行かないかと言います。それもたって勧めるではなく、彼の癖として少し顔を赤らめて、もじもじして、丁寧に一言「行きませんか」と言ったのです。 私はいやと言うことができ・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・そして、彼らが市街のいずれかへ消えて行って、今夜ひっかえしてくる時には、靴下や化粧品のかわりに、ルーブル紙幣を、衣服の下にかくしている。そんな奴があった。 二 北方の国境の冬は、夜が来るのが早かった。 にょきにょ・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・予め心積りをしていた払いの外に紺屋や、樋直し、按摩賃、市公の日傭賃などが、だいぶいった。病気のせいで彼はよく肩が凝った。で、しょっちゅう按摩を呼んでいた。年末にツケを見ると、それだけでも、かなり嵩ばっていた。それに正月の用意もしなければなら・・・ 黒島伝治 「窃む女」
・・・ そして今夜で三回だ、龍介はフトそう思うと、何んのためにこう来るか、自分の底に動いているある気持を感じて、ゾッとした。女は外へは出ていなかった。が、足音を聞くとすぐ出てきた。「兄さん、お寄り……よ」そう言いながら、彼の顔を見て、「こ・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
出典:青空文庫