・・・たった二日か三日しか畑も田圃も見ないのだが、何だか三年も吾子に逢わないような気がした。「もう嫁達は、川端田圃へゆきついた時分だろう……」 頃合をはかって、善ニョムさんは寝床の上へ、ソロソロ起きあがると、股引を穿き、野良着のシャツを着・・・ 徳永直 「麦の芽」
・・・医者へもゆけず、ぐるぐるにおしまいた繃帯に血が滲み出ているのが、黒い塀を越して来る外光に映し出されて、いやに眼頭のところで、チラチラするのである。 恩知らずの川村の畜生め! 餓鬼時分からの恩をも忘れちまいやがって、俺の頭を打ち割るなんて・・・ 徳永直 「眼」
・・・けれども、出入りの八百屋の御用聞き春公と、家の仲働お玉と云うのが何時か知ら密通して居て、或夜、衣類を脊負い、男女手を取って、裏門の板塀を越して馳落ちしようとした処を、書生の田崎が見付けて取押えたので、お玉は住吉町の親元へ帰されると云う大騒ぎ・・・ 永井荷風 「狐」
・・・彼は六十を越しても三四十代のもの、特に二十代のものとのみ交って居た。彼の年輩のものは却て彼の相手ではない。彼は村には二人とない不男である。彼は幼少の時激烈なる疱瘡に罹った。身体一杯の疱瘡が吹き出した時其鼻孔まで塞ってしまった。呼吸が逼迫して・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・両人がここに引き越したのは千八百三十四年の六月十日で、引越の途中に下女の持っていたカナリヤが籠の中で囀ったという事まで知れている。夫人がこの家を撰んだのは大に気に入ったものかほかに相当なのがなくてやむをえなんだのか、いずれにもせよこの煙突の・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・松の梢を越して国分寺の五重の塔が、日の光、月の光に見渡された。 人数に比べて部屋の数が多過ぎるので、寄宿舎は階上を自習室にあて、階下を寝室にあててあった。どちらも二十畳ほど敷ける木造西洋風に造ってあって、二人では、少々淋しすぎた。が、深・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・と、お熊は唐紙越しに、「花魁、こなたの御都合でねえ、よござんすか」「うるさいよッ」と、吉里も唐紙越しに睨んで、「人のことばッかし言わないで、自分も気をつけるがいいじゃアないか。ちッたアそこで燗番でもするがいいんさ。小万さんの働いておいで・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ 去年の夏も過ぎて秋も半を越した頃であったが或日非常な心細い感じがして何だか呼吸がせまるようで病牀で独り煩悶していた。此時は自己の死を主観的に感じたので、あまり遠からん内に自分は死ぬるであろうという念が寸時も頭を離れなかった。斯ういう時・・・ 正岡子規 「死後」
・・・そのうち外の象どもは、仲間のからだを台にして、いよいよ塀を越しかかる。だんだんにゅうと顔を出す。その皺くちゃで灰いろの、大きな顔を見あげたとき、オツベルの犬は気絶した。さあ、オツベルは射ちだした。六連発のピストルさ。ドーン、グララアガア、ド・・・ 宮沢賢治 「オツベルと象」
・・・紫っぽい着物がぱっと目に映えて、硝子越し、小松の生えた丘に浮かんで花が咲いたように見えた。陽子は足音を忍ばせ、いきなり彼女の目の下へ姿を現わしてひょいとお辞儀をした。「!」 思わず一歩退いて、胸を拳でたたきながら、「陽ちゃんたら・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
出典:青空文庫