・・・というお侍いさんは……」と瞽女の坊の身振りをして、平生小六かしい顔をしている先生の意外な珍芸にアッと感服さしたというのはやはり昔し取った杵柄の若辰の物真似であったろう。「謹厳」が洋服を着たような満面苦渋の長谷川辰之助先生がこういう意表な隠し・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・ その老臣は、謹んで天子さまの命を奉じて、御前をさがり、妻子・親族・友人らに別れを告げて、船に乗って、東を指して旅立ちいたしましたのであります。その時分には、まだ汽船などというものがなかったので、風のまにまに波の上を漂って、夜も昼も東を・・・ 小川未明 「不死の薬」
・・・ かれ男爵、ただ酒を飲み、白眼にして世上を見てばかりいた加藤の御前は、がっかりしてしまった。世上の人はことごとく、彼ら自身の問題に走り、そがために喜憂すること、戦争以前のそれのごとくに立ち返った。けれども、男は喜憂目的物を失った。すなわ・・・ 国木田独歩 「号外」
・・・見かえればかしこなるは哀れを今も、七百年の後にひく六代御前の杜なり。木がらしその梢に鳴りつ。 落葉を浮かべて、ゆるやかに流るるこの沼川を、漕ぎ上る舟、知らずいずれの時か心地よき追分の節おもしろくこの舟より響きわたりて霜夜の前ぶれをか為し・・・ 国木田独歩 「たき火」
・・・ それにもまして美しい、私の感嘆してやまない消息は新尼御前への返書として、故郷の父母の追憶を述べた文字である。「海苔一ふくろ送り給ひ畢んぬ。……峰に上りてわかめや生ひたると見候へば、さにてはなくて蕨のみ並び立ちたり。谷に下りて、あま・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・客と主人との間の話で、今日学校で主人が校長から命ぜられた、それは一週間ばかり後に天子様が学校へご臨幸下さる、その折に主人が御前で製作をしてご覧に入れるよう、そしてその製品を直に、学校から献納し、お持帰りいただくということだったのが、解ったの・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・ここの御社の御前の狛犬は全く狼の相をなせり。八幡の鳩、春日の鹿などの如く、狼をここの御社の御使いなりとすればなるべし。 さてこれより金崎へ至らんとするに、来し路を元のところまで返りて行かんもおかしからねばとて、おおよその考えのみを心頼み・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・七「困ったって、私は人の家へ往ってお辞儀をするのは嫌いだもの、高貴の人の前で口をきくのが厭だ、気が詰って厭な事だ、お大名方の御前へ出ると盃を下すったり、我儘な変なことを云うから其れが厭で、私は宅に引込んでゝ何処へも往かない、それで悪けれ・・・ 著:三遊亭円朝 校訂:鈴木行三 「梅若七兵衞」
・・・で、まあ新講談と思えば、講談の奇想天外にはまた捨てがたいところもあるのだから、楽しく読めることもあるけれど、あの、深刻そうな、人間味を持たせるとかいって、楠木正成が、むやみ矢鱈に、淋しい、と言ったり、御前会議が、まるでもう同人雑誌の合評会の・・・ 太宰治 「鉄面皮」
・・・「あたし、巴御前じゃない。薙刀もって奮戦するなんて、いやなこった。」「似合うよ。」「だめ。あたし、ちびだから、薙刀に負けちゃう。」 ふふ、と数枝は笑った。数枝の気嫌が直ったらしいので、さちよは嬉しく、「ねえ。あたしの言うこと・・・ 太宰治 「火の鳥」
出典:青空文庫