・・・変な夢ばかりを見て、昼ごろに眼をさました。これで三度だめになった。そしてこういうことが、彼の気持をもズルズルにさした。彼はその間ちっとも落ちつけず、何んにも仕事ができなかった。しかし何回ものこういうことが、かえって彼の恵子に対する気持を変に・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・なりこれを聞いてアラ姉さんとお定まりのように打ち消す小春よりも俊雄はぽッと顔赧らめ男らしくなき薄紅葉とかようの場合に小説家が紅葉の恩沢に浴するそれ幾ばく、着たる糸織りの襟を内々直したる初心さ小春俊雄は語呂が悪い蜆川の御厄介にはならぬことだと・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・下し物平を得ざれば胃の腑の必ず鳴るをこらえるもおかしく同伴の男ははや十二分に参りて元からが不等辺三角形の眼をたるませどうだ山村の好男子美しいところを御覧に供しようかねと撃て放せと向けたる筒口俊雄はこのごろ喫み覚えた煙草の煙に紛らかしにっこり・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・日ごろ、次郎びいきの下女は、何かにつけて「次郎ちゃん、次郎ちゃん」で、そんな背の低いことでも三郎をからかうと、そのたびに三郎はくやしがって、「悲観しちまうなあ――背はもうあきらめた。」 と、よく嘆息した。その三郎がめきめきと延びて来・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・ 二 災害の来た一日はちょうど二百十日の前日で、東京では早朝からはげしい風雨を見ましたが、十時ごろになると空も青々とはれて、平和な初秋びよりになったとおもうと、午どきになって、とつぜんぐら/\/\とゆれ出したので・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・ おひるごろから、ひとりでぼそぼそ仕事をしていると、わかい女の合唱が聞えて来る。私はペンを休めて、耳傾ける。下宿と小路ひとつ距て製糸工場が在るのだ。そこの女工さんたちが、作業しながら、唄うのだ。なかにひとつ、際立っていい声が在って、そい・・・ 太宰治 「I can speak」
・・・接眼の材料は豚の目では語呂が悪いから兎の目と云う事にした。奇蹟が実現せられて、其の女は其の日から世界を杖で探る必要が無くなった。エディポス王の見捨てた光りの世を、彼女は兎の目で恢復する事が出来たのである。此の事件は余程世間を騒がせたと見えて・・・ 太宰治 「女人訓戒」
およそありの儘に思う情を言顕わし得る者は知らず/\いと巧妙なる文をものして自然に美辞の法に称うと士班釵の翁はいいけり真なるかな此の言葉や此のごろ詼談師三遊亭の叟が口演せる牡丹灯籠となん呼做したる仮作譚を速記という法を用いて・・・ 著:坪内逍遥 校訂:鈴木行三 「怪談牡丹灯籠」
・・・それからまた、やはり夜明けごろに窓外の池の汀で板片を叩くような音がする。間もなく同じ音がずっと遠くから聞こえる。水鶏ではないかと思う。再び眠りに落ちてうとうとしながら、古い昔に死んだ故郷の人の夢を見た。フロイドの夢判断に拠るまでもなく、これ・・・ 寺田寅彦 「浅間山麓より」
・・・しかるにフランスのハイカイはなるほど三つの詩句でできているというだけは日本のに習っているが、一句の長さにはなんの制限もないし、三句の終わりの語呂の関係にも頓着しない。それでは言わば多少気のきいたノート・ド・カルネーぐらいにはなるかもしれない・・・ 寺田寅彦 「俳句の精神」
出典:青空文庫