・・・「言うのはお止しなさいよ」「何故や、言うよ、明日こそ言うよ」「だってね母上のことだから又大きな声をして必定お怒鳴になるから、近処へ聞えても外聞が悪いし、それにね、貴所が思い切たことを被仰ると直ぐ私が恨まれますから。それでなくても・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・松木は、窓口へさし上げた。「有がとう。」 コーリヤが、窓口から、やったものを受取って向うへ行くと、「きっと、そこに誰れか来とるんだ。」と、武石は、小声で、松木にささやいた。「誰れだな、俺れゃどうも見当がつかん。」「這入り・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・と唱い終ると、また他の一人が声張り上げて、桑を摘め摘め、爪紅さした 花洛女郎衆も、桑を摘め。と唱ったが、その声は実に前の声にも増して清い澄んだ声で、断えず鳴る笛吹川の川瀬の音をもしばしは人の耳から逐い払っ・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・――あまりやかましいので、一度特高室で進と面会をさしてやった。息子が係りの刑事に連れられて、入ってきたのを見るや否や、いきなり大声で「こン畜生! この親不孝の馬鹿野郎奴!」と怒鳴りつけた。刑事の方がかえって面喰らって、「まあ/\、こういう時・・・ 小林多喜二 「母たち」
・・・あれほどおげんは頼み甲斐のない旦那から踏みにじられたように思いながらも、自分の前に手をついて平あやまりにあやまる旦那を眼前に見、やさしい声の一つも耳に聞くと、つい何もかも忘れて旦那を許す気にもなった。おげんが年若な伜の利発さに望みをかけ、温・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・ 一たい厩の建物では、夜もけっして灯をつけないように、きびしくさし止めてありました。それで、ウイリイはいつでも窓をかたくしめておくのでしたが、それでもしまいには、だれかが、そこに灯がついているのを見つけて、厩頭の役人に言いつけました。・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
・・・――人の心臓であったら出血のために動かなくなってしまうほどたくさん針が布をさし通して、一縫いごとに糸をしめてゆきます――不思議な。「ママ今日私は村に行って太陽が見たい、ここは暗いんですもの」 とその小さな子が申しました。「昼過ぎ・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・ 何だいあれあ、と口々にお祭を意味なく軽蔑しながら、三島の町から逃れ出て沼津をさしてどんどん歩き、日の暮れる頃、狩野川のほとり、江島さんの別荘に到着することが出来ました。裏口から入って行くと、客間に一人おじいさんが、シャツ一枚で寝ころんで居・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・やがて、その外套を止しました。さらに一枚、造りました。こんどは、黒のラシャ地を敬遠して、コバルト色のセル地を選び、それでもって再び海軍士官の外套を試みました。乾坤一擲の意気でありました。襟は、ぐっと小さく、全体を更に細めに華奢に、胴のくびれ・・・ 太宰治 「おしゃれ童子」
・・・と笑談のようにこの男に言ったらこの場合に適当ではないかしら、と女は考えたが、手よりは声の方が余計に顫えそうなのでそんな事を言うのは止しにした。そこで金を払って、礼を云って店を出た。 例の出来事を発明してからは、まだ少しも眠らなかったので・・・ 太宰治 「女の決闘」
出典:青空文庫