・・・復讐の挙が江戸の人心に与えた影響を耳にするのは、どんな些事にしても、快いに相違ない。ただ一人内蔵助だけは、僅に額へ手を加えたまま、つまらなそうな顔をして、黙っている。――藤左衛門の話は、彼の心の満足に、かすかながら妙な曇りを落させた。と云っ・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・菊池の理智的な心の持ち方は、こんな些事にも現われているように思う。 それから家庭の菊池は、いゝ良人でもあるし、いゝ父でもあるのみならず、いゝ隣人をも兼ねているようである。菊池の家へ行くと、近所の子供が大ぜい集まって、菊池夫婦や、菊池の子・・・ 芥川竜之介 「合理的、同時に多量の人間味」
・・・ 瑣事 人生を幸福にする為には、日常の瑣事を愛さなければならぬ。雲の光り、竹の戦ぎ、群雀の声、行人の顔、――あらゆる日常の瑣事の中に無上の甘露味を感じなければならぬ。 人生を幸福にする為には?――しかし瑣事を愛するも・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・ だが、極めて神経質で、学徳をも人格をも累するに足らない些事でも決して看過しなかった。十数年以往文壇と遠ざかってからは較や無関心になったが、『しがらみ草紙』や『めざまし草』で盛んに弁難論争した頃は、六号活字の一行二行の道聴塗説をさえも決・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・一体が何事にも執念く、些細な日常瑣事にすら余りクドクド言い過ぎる難があるが、不思議に失明については思切が宜かった。『回外剰筆』の視力を失った過程を述ぶるにあたっても、多少の感慨を洩らしつつも女々しい繰言を繰り返さないで、かえって意気のますま・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・二葉亭の言分を聞けば一々モットモで、大抵の場合は小競合いの敵手の方に非分があったが、実は何でもない日常の些事をも一々解剖分析して前後表裏から考えて見なければ気が済まない二葉亭の性格が原因していた。一と口にいえば二葉亭は家庭の主人公としては人・・・ 内田魯庵 「二葉亭追録」
・・・ もっとも、事件そのものは取るに足らぬ些事に過ぎなかった。事件というより、出来事といった方がいいくらいだ。しかし、耳かきですくうような、ちっぽけな出来事でも、世に佃煮にするくらい多い所謂大事件よりも、はるかにニュース的価値のある場合もあ・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・時には、彼の傍についていて、一寸した些事を一々取り上げて小言を云った。桃桶で汲む諸味の量が多いとか、少いとか、やかましく云った。 すると、古江も図に乗って、仁助と同じように小言を並べた。「おーい、やろか。」 三十分のタバコが・・・ 黒島伝治 「まかないの棒」
・・・それほどに平凡な月並み、日並み、夜並みの市井の些事がカメラと映写機のレンズをくぐり録音器の機構を通過したというだけでどうして「評判の映画」となり、世界じゅうの常設館に渡り渡って人を呼ぶであろうか。もちろん観客の内の一部はたぶんそれが評判の映・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・のごとき自然描写を主題にしたものでも、おそらく映画製作者の意識には上らなかったような些事で、かえって最も強くわれわれの心を引くものが少なくない。たとえば獅子やジラフやゼブラそのものの生活姿態のおもしろいことはもちろんであるが、その周囲の環境・・・ 寺田寅彦 「映画時代」
出典:青空文庫