・・・不断なら月の差すべき夜と見えて、空を蔽う気味の悪い灰色の雲が、明らさまに東から西へ大きな幅の広い帯を二筋ばかり渡していた。その間が白く曇って左右の鼠をかえって浮き出すように彩った具合がことさらに凄かった。余が池辺邸に着くまで空の雲は死んだよ・・・ 夏目漱石 「三山居士」
・・・すると左右を鎖す一面の芒の根から爽かな虫の音が聞え出した。それが幌を打つ雨の音に打ち勝つように高く自分の耳に響いた時、自分はこの果しもない虫の音に伴れて、果しもない芒の簇りを眼も及ばない遠くに想像した。そうしてそれを自分が今取り巻かれている・・・ 夏目漱石 「初秋の一日」
・・・ 濛々と天地を鎖す秋雨を突き抜いて、百里の底から沸き騰る濃いものが渦を捲き、渦を捲いて、幾百噸の量とも知れず立ち上がる。その幾百噸の煙りの一分子がことごとく震動して爆発するかと思わるるほどの音が、遠い遠い奥の方から、濃いものと共に頭の上・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・黒い天井に差す丸行灯の丸い影が、仰向く途端に生きてるように見えた。 立膝をしたまま、左の手で座蒲団を捲って、右を差し込んで見ると、思った所に、ちゃんとあった。あれば安心だから、蒲団をもとのごとく直して、その上にどっかり坐った。 お前・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・糠粒を針の目からこぼすような細かいのが満都の紅塵と煤煙を溶かして濛々と天地を鎖す裏に地獄の影のようにぬっと見上げられたのは倫敦塔であった。 無我夢中に宿に着いて、主人に今日は塔を見物して来たと話したら、主人が鴉が五羽いたでしょうと云う。・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・あるいはこれを捨てて用いざらんか、怨望満野、建白の門は市の如く、新聞紙の面は裏店の井戸端の如く、その煩わしきや衝くが如く、その面倒なるや刺すが如く、あたかも無数の小姑が一人の家嫂を窘るに異ならず。いかなる政府も、これに堪ゆること能わざるにい・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・況して小説戯作は往々人の情を刺すこと劇しくして、血気の春とも言う可き妙年女子の為めには先ず以て有害にこそあれば、文学の必要よりしていよ/\之を読まんとならば、其種類を選ぶこと大切なる可し。一 婦人の気品を維持することいよ/\大切なりとす・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・(女またその慓悍な声が刺すように云った。そしてまたしんとした。そして心配そうな息をこくりとのむ音が近くにした。富沢は蚊帳の外にここの主人が寝ながらじっと台所の方へ耳をすましているのを半分夢のように見た。(戻さっきの女の声がした。こっ・・・ 宮沢賢治 「泉ある家」
・・・寒さはからだを刺すようだ。それに今朝からまだ何も食べないので、胃ももうからになったらしく、あらしのようにゴウゴウ鳴った。 豚はもう眼もあけず頭がしんしん鳴り出した。ヨークシャイヤの一生の間のいろいろな恐ろしい記憶が、まるきり廻り燈籠のよ・・・ 宮沢賢治 「フランドン農学校の豚」
・・・ 一つ毎に、白い三日月のついた爪、うす紅の輪廓から、まぼしい光りの差す様な顔、つやつやしい歯、自分からは、幾十年の前に去ってしまった青年の輝やかしさをすべて持って居る達を見る毎に押えられないしっとが起った。 親として子の体を「やきも・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
出典:青空文庫