・・・僕は薄暗い電燈の下に独逸文法を復習した。しかしどうも失恋した彼に、――たとい失恋したにもせよ、とにかく叔父さんの娘のある彼に羨望を感じてならなかった。 五 彼はかれこれ半年の後、ある海岸へ転地することになった。・・・ 芥川竜之介 「彼」
・・・ 宮本はそう云う間にも、火の気の映ったストオヴの口へ一杯の石炭を浚いこんだ。「温度の異なる二つの物体を互に接触せしめるとだね、熱は高温度の物体から低温度の物体へ、両者の温度の等しくなるまで、ずっと移動をつづけるんだ。」「当り前じ・・・ 芥川竜之介 「寒さ」
・・・ 四〇 勉強 僕は僕の中学時代はもちろん、復習というものをしたことはなかった。しかし試験勉強はたびたびした。試験の当日にはどの生徒も運動場でも本を読んだりしている。僕はそれを見るたびに「僕ももっと勉強すればよかった」・・・ 芥川竜之介 「追憶」
・・・その生活の規則的なる事、エマヌエル・カントの再来か時計の振子かと思う程なりき。当時僕等のクラスには、久米正雄の如き或は菊池寛の如き、天縦の材少なからず、是等の豪傑は恒藤と違い、酒を飲んだりストオムをやったり、天馬の空を行くが如き、或は乗合自・・・ 芥川竜之介 「恒藤恭氏」
・・・人ばかり、男客は、宇治紫暁と云う、腰の曲った一中の師匠と、素人の旦那衆が七八人、その中の三人は、三座の芝居や山王様の御上覧祭を知っている連中なので、この人たちの間では深川の鳥羽屋の寮であった義太夫の御浚いの話しや山城河岸の津藤が催した千社札・・・ 芥川竜之介 「老年」
・・・ 夜はいよいよ更けて、風寒きに、怪者の再来を慮りて、諸君は一夜を待明かさむ。 明くるを待ちて主翁に会し、就きて昨夜の奇怪を問われよ。主翁は黙して語らざるべし。再び聞かれよ、強いられよ、なお強いられよ。主翁は拒むことあたわずして、愁然・・・ 泉鏡花 「化銀杏」
・・・二月に入ればよい日を見て種井浚いをやる。その夜は茶飯ぐらいこしらえて酒の一升も買うときまってる。 今日は珍しくおはま満蔵と兄と四人手揃いで働いたから、家じゅう愉快に働いた。この晩兄はいつもより酒を過ごしてる。「省作、今夜はお前も一杯・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・芸者が来ると、蝶子はしかし、ありったけの芸を出し切って一座を浚い、土地の芸者から「大阪の芸者衆にはかなわんわ」と言われて、わずかに心が慰まった。 二日そうして経ち、午頃、ごおッーと妙な音がして来た途端に、激しく揺れ出した。「地震や」「地・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・ ええ、今更お復習しても始まらぬか。昔を今に成す由もないからな。 しかし彼時親類共の態度が余程妙だった。「何だ、馬鹿奴! お先真暗で夢中に騒ぐ!」と、こうだ。何処を押せば其様な音が出る? ヤレ愛国だの、ソレ国難に殉ずるのという口の下・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・ 十一月の下旬だったが、Fは帰ってきて晩飯をすますとさっそくまた机に向って算術の復習にかかった。私は茶店の娘相手に晩酌の盃を嘗めていたが、今日の妻からの手紙でひどく気が滅入っていた。二女は麻疹も出たらしかった。彼女は八つになるのだが、私・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
出典:青空文庫