・・・この爬虫類の標本室はちょうど去年の夏以来、三重子と出合う場所に定められている。これは何も彼等の好みの病的だったためではない。ただ人目を避けるためにやむを得ずここを選んだのである。公園、カフェ、ステエション――それ等はいずれも気の弱い彼等に当・・・ 芥川竜之介 「早春」
・・・が、泰さんは存外驚かずに、しばらくはただ軒先の釣荵が風にまわるのを見ていましたが、ようやく新蔵の方へ眼を移すと、それでもちょいと眉をひそめて、「つまり君が目的を達するにゃ、三重の難関がある訣だね。第一に君はお島婆さんの手から、安全にだね、安・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・飾の鳥には、雉子、山鶏、秋草、もみじを切出したのを、三重、七重に――たなびかせた、その真中に、丸太薪を堆く烈々と燻べ、大釜に湯を沸かせ、湯玉の霰にたばしる中を、前後に行違い、右左に飛廻って、松明の火に、鬼も、人も、神巫も、禰宜も、美女も、裸・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・そして、見つけたのは「武田麟太郎三月卅一日朝急逝す」 死んでもいい人間が佃煮にするくらいいるのに、こんな人が死んでしまうなんて、一体どうしたことであろうか。東条英機のような人間が天皇を脅迫するくらいの権力を持ったり、人民を苦しめるだけの・・・ 織田作之助 「武田麟太郎追悼」
・・・に移りかけている。三重四重、五重にも六重にも重なって鳴いている。 峻はこの間、やはりこの城跡のなかにある社の桜の木で法師蝉が鳴くのを、一尺ほどの間近で見た。華車な骨に石鹸玉のような薄い羽根を張った、身体の小さい昆虫に、よくあんな高い音が・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・さよなら、御返事をお待ちしています。三重県北牟婁郡九鬼港、気仙仁一。追白。私は刺青をもって居ります。先生の小説に出て来る模様と同一の図柄にいたしました。背中一ぱいに青い波がゆれて、まっかな薔薇の大輪を、鯖に似て喙の尖った細長い魚が、四匹、花・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・前半身を三重四重に折り曲げ強直させて立ち上がった姿は、肩をそびやかし肱を張ったボクサーの身構えそっくりである。そうして絶えずその立ち上がった半身を左右にねじ曲げて敵のすきをねらう身ぶりまでが人間そのままである。これはもちろん人間のまねをして・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(3[#「3」はローマ数字、1-13-23])」
・・・とあり、消印は「武蔵東京下谷 卅三年七月二十四日イ便」となっている。これは、夏目先生が英国へ留学を命ぜられたために熊本を引上げて上京し、奥さんのおさとの中根氏の寓居にひと先ず落着かれたときのことであるらしい。先生が上京した事をわざわざ知らし・・・ 寺田寅彦 「子規自筆の根岸地図」
十月早稲田に移る。伽藍のような書斎にただ一人、片づけた顔を頬杖で支えていると、三重吉が来て、鳥を御飼いなさいと云う。飼ってもいいと答えた。しかし念のためだから、何を飼うのかねと聞いたら、文鳥ですと云う返事であった。 文鳥は三重吉の・・・ 夏目漱石 「文鳥」
・・・ 明治卅四年十一月六日灯下ニ書ス東京 子規 拝 倫敦ニテ 漱石 兄 此手紙は美濃紙へ行書でかいてある。筆力は垂死の病人とは思えぬ程慥である。余は此手紙を見る度に何だか故人に対して済まぬ事をしたような気がする。書き・・・ 夏目漱石 「『吾輩は猫である』中篇自序」
出典:青空文庫