・・・目的はピー砲台じゃ、その他の命令は出さんから、この川を出るが最後、個々の行動を取って進めという命令が、敵に悟られん様に、聨隊長からひそかに、口渡しで、僕等に伝えられ、僕等は今更電気に打たれた様に顫たんやが、その日の午後七時頃、いざと一同川を・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・お大尽や成金やお大名の座敷の床の間を飾るには不向きであるが、悪紙悪墨の中に燦めく奔放無礙の稀有の健腕が金屏風や錦襴表装のピカピカ光った画を睥睨威圧するは、丁度墨染の麻の衣の禅匠が役者のような緋の衣の坊さんを大喝して三十棒を啗わすようなもので・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ 今ここに丹羽さんがいませぬから少し丹羽さんの悪口をいいましょう……後でいいつけてはイケマセンよ。丹羽さんが青年会において『基督教青年』という雑誌を出した。それで私のところへもだいぶ送ってきた。そこで私が先日東京へ出ましたときに、先生が・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
のぶ子という、かわいらしい少女がありました。「のぶ子や、おまえが、五つ六つのころ、かわいがってくださった、お姉さんの顔を忘れてしまったの?」と、お母さまがいわれると、のぶ子は、なんとなく悲しくなりました。 月日は、ちょうど、う・・・ 小川未明 「青い花の香り」
・・・「なあにお前さん、ここはもう何々村って、村でさ。」「何々村――何々村には何でしょうか、どこかその……泊めてもらうような所はないでしょうか。」私はふと口に出たままを聞いてみる。「泊めてもらうって――宿屋かね。」と車夫は提灯の火影に・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・温泉へ来たのかという意味のことを訊かれたので、そうだと答えると、もういっぺんお辞儀をして、「お疲れさんで……」 温泉宿の客引きだった。頭髪が固そうに、胡麻塩である。 こうして客引きが出迎えているところを見ると、こんな夜更けに着く・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・なあにね、明日あたり屹度母さんから金が来るからね、直ぐ引越すよ、あんな奴幾ら怒ったって平気さ」 膳の前に坐っている子供等相手に、斯うした話をしながら、彼はやはり淋しい気持で盃を嘗め続けた。 無事に着いた、屹度十日までに間に合せて金を・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・すると「お母さん。顔がこんなに腫れました。手も腫れました。眼が充分明けません。一寸鏡を貸して下さい」と言います。その時私は、鏡を見せるのはあまりに不愍と思いましたので、鏡は見ぬ方がよかろうと言いますと、平常ならば「左様ですか」と引っ込んで居・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・「ポーリンさんにシマノフさん、いらっしゃい」 ウエイトレスの顔は彼らを迎える大仰な表情でにわかに生き生きし出した。そしてきゃっきゃっと笑いながら何か喋り合っていたが、彼女の使う言葉はある自由さを持った西洋人の日本語で、それを彼女が喋・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・光代は傍に聞いていたりしが、それでもあの綱雄さんは、もっと若くって上品で、沈着いていて気性が高くって、あの方よりはよッぽどようござんすわ。と調子に確かめて膝押し進む。ホイ、お前の前で言うのではなかった。と善平は笑い出せば、あら、そういうわけ・・・ 川上眉山 「書記官」
出典:青空文庫