・・・実の母が死んですぐその年に義母が来たのだが、それからざっと二十年の間私たちは大部分旅で暮してきて、父とも親しく半年といっしょに暮した憶えもなく過してきたようなわけで、ようようこれからいっしょに暮せる時が来た、せめて二三年は生きてもらって好き・・・ 葛西善蔵 「父の葬式」
・・・それに毀れた方はざっとした菫花の模様で、焼も余りよくありませんが、こちらは中は金襴地で外は青華で、工手間もかかっていれば出来もいいし、まあ永楽という中にもこれ等は極上という手だ、とご自分で仰ゃった事さえあるじゃあございませんか。」「ウム・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・まず、ざっと、こんなものだ、と言わぬばかりに、ナルシッサスは、再び、人さし指で気障な頬杖やらかして、満座をきょろと眺め渡した。「うん。だいたい、」長兄は、もったいぶって、「そんなところで、よろしかろう。けれども、――」長兄は、長兄として・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・ ご亭主は土間のお客を一わたりざっと見廻し、それから真っ直ぐに夫のいるテーブルに歩み寄って、その綺麗な奥さんと何か二言、三言話を交して、それから三人そろって店から出て行きました。 もういいのだ。万事が解決してしまったのだと、なぜだか・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・地平も、そのころ、おのれを仕合せとは思わず、何かと心労多かったことであったようだが、それより、三年たって、今日、精も根も使いはたして、洋服の中に腐りかけた泥がいっぱいだぶだぶたまって、ああ、夕立よ、ざっと降れ、銀座のまんなかであろうと、二重・・・ 太宰治 「喝采」
・・・それから書いたものをざっと読んで見た。かなりの出来である。格別読みづらくはない。いよいよ遣らなくてはならないとなると、遣れるものだと、自分で満足した。 そう思うと同時に、平生の傲慢が萌す。幸な事には、いつまでもこんな事をする必要がない。・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・そこでまずかりに温泉なら温泉ときめて、温泉の部を少し詳しく見て行くと、各温泉の水質や効能、周囲の形勝名所旧跡などのだいたいがざっとわかる。しかしもう少し詳しく具体的の事が知りたくなって、今度は温泉専門の案内書を捜し出して読んでみる。そうする・・・ 寺田寅彦 「案内者」
・・・大垣停車場から、伊吹山頂、海抜一三七七メートルの点までの距離が、ほとんどちょうど二十キロメートル、すなわちざっと五里である。それから計算してみると、大垣から見た山頂の仰角は、相当に大きく、たとえば、江の島から富士を見るよりは少し大きいくらい・・・ 寺田寅彦 「伊吹山の句について」
・・・この頃の若い女はざっと雨が降ってくるのを見ても、あらしもよいの天気だとは言わない。低気圧だとか、暴風雨だとか言うよ。道をきくと、車夫のくせに、四辻の事を十字街だの、それから約一丁先だのと言うよ。ちょいと向の御稲荷さまなんていう事は知らないん・・・ 永井荷風 「十日の菊」
・・・さて当日の模様をざっと書いて見ると、酒の良いのを二升、そら豆の塩茄に胡瓜の香物を酒の肴に、干瓢の代りに山葵を入れた海苔巻を出した。菓子折を注文して、それを長屋の軒別に配った。兄弟分が御世話になりますからとの口上を述べに何某が鹿爪らしい顔で長・・・ 永井荷風 「深川の散歩」
出典:青空文庫