・・・ 私は寸時まえの拍手とざわめきとをあたかも夢のように思い浮かべた。それは私の耳にも目にもまだはっきり残っていた。あんなにざわめいていた人びとが今のこの静けさ――私にはそれが不思議な不思議なことに思えた。そして人びとは誰一人それを疑おうと・・・ 梶井基次郎 「器楽的幻覚」
・・・ 幽かに、表の街路のほうから、人のざわめきが聞えて来る。しばらくして、宿の廊下が、急にどたばた騒がしくなり、女中さんたちの囁き、低い笑声も聞える。私は、兄の叱咤の言よりも、そのほうに、そっと耳をすましていた。ふっと一言、聴取出来た。私は・・・ 太宰治 「一燈」
・・・か、私の高等学校時代からの友人が、おっかなびっくり、或る会合の末席に列していて、いまにこの辺、全部の地区のキャップが来るぞと、まえぶれがあって、その会合に出ているアルバイタアたちでさえ、少し興奮して、ざわめきわたって、或る小地区の代表者とし・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・それかも知れぬと思った時に、背後の船室は、ざわめきはじめた。「さあ、もう見えて来ました。」という言葉が、私の耳にはいった。 私は、うんざりした。あの大陸が佐渡なのだ。大きすぎる。北海道とそんなに違わんじゃないかと思った。台湾とは、ど・・・ 太宰治 「佐渡」
・・・待合室はざわめき始めた。 ニョキニョキと人々は立ち上った。 彼は瞬間、ベンチの凭れ越しに振りかえった。誰も、彼を覘ってはいなかった。それと思われるのが二人、入口の処でゾロゾロ改札口の方へ動いて行く、群集を眼で拾っていた。 彼は、・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・ 柏はざわめき、月光も青くすきとおり、大王も機嫌を直してふんふんと云いました。 若い木は胸をはってあたらしく歌いました。「うさぎのみみはながいけど うまのみみよりながくない。」「わあ、うまいうまい。ああはは、ああはは。」・・・ 宮沢賢治 「かしわばやしの夜」
・・・祭司次長がしばらく式場を見まわして今のざわめきが静まってから落ちついて異教徒席へ行きました。ほかにお立ちの方はありませんかとでも云ったようでしたが誰もしんとして答えるものがありませんでしたので次長は一寸礼をして引き下がりました。「すっか・・・ 宮沢賢治 「ビジテリアン大祭」
・・・ 自分というとりこめられた一つの生きものに向って、何か企み、喚めき、ざわめき立った竹類が、この竹藪を出ぬ間に、出ぬ間に! と犇めき迫って来るような凄さを経験するに違いない。 空が荒模様になり、不機嫌な風がザワザワ葉を鳴らし出すと、私の内・・・ 宮本百合子 「雨と子供」
・・・例によって、九時ごろまでつづく騒々しいざわめきを聴きながら、どこやら落付かない心持でベッドの上に坐っている。いよいよ明日かえると思うと何だか落付かない。誰がうちに待っているというでもないのに。それでも落付かない心。そういう心。ベッドをおりて・・・ 宮本百合子 「寒の梅」
斜向いの座席に、一人がっしりした骨組みの五十ばかりの農夫が居睡りをしていたが、宇都宮で目を醒した。ステイションの名を呼ぶ声や、乗客のざわめきで、眠りを醒されたという工合だ。窓の方を向いて窮屈に胡座をくんでいた脚を下駄の上に・・・ 宮本百合子 「北へ行く」
出典:青空文庫