・・・「しかしまあ哲学通りに、飛び下りなかっただけ仕合せだったよ。」 無口な野口も冗談をいった。しかし藤井は相不変話を続けるのに熱中していた。「和田のやつも女の前へ来ると、きっと嬉しそうに御時宜をしている。それがまたこう及び腰に、白い・・・ 芥川竜之介 「一夕話」
・・・「とにかく、その女は仕合せ者だよ。」「御冗談で。」「まったくさ。お爺さんも、そう思うだろう。」「手前でございますか。手前なら、そう云う運はまっぴらでございますな。」「へええ、そうかね。私なら、二つ返事で、授けて頂くがね。・・・ 芥川竜之介 「運」
・・・こんな慌しい書き方をした文章でも、江口を正当に価値づける一助になれば、望外の仕合せだと思っている。 芥川竜之介 「江口渙氏の事」
・・・たとえばお前が世過ぎのできるだけの仕事にありついたとしても、弟や妹たちにどんなやくざ者ができるか、不仕合わせが持ち上がるかしれたものではないのだ。そうした場合にこの農場にでもはいり込んで土をせせっていればとにもかくにも食いつないでは行けるだ・・・ 有島武郎 「親子」
・・・人はみんな省作さんは仕合せだ仕合せだと言ってる、何が不足で厭になったというのかい。我儘いうもほどがある、親の苦労も知らないで……。お前は深田にいさえすれば仕合せなのだ。おッ母さんまで安心ができるのだに。どういう気かいお前は、いつまでこの年寄・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・を出る時にゃ、まだ薄暗かったが、夏は夜明けの明るくなるのが早いから、村のはずれへ出たらもう畑一枚先の人顔が分るようになった、いつでも話すこったが、そん時おれが、つくづく感心したのは、そら今ではあんなに仕合せをしてる、佐兵エどんの家内よ、あの・・・ 伊藤左千夫 「姪子」
・・・弾丸が当ってくれたのはわしとして名誉でもあったろが、くたばりそこねてこないな耻さらしをするんやさかい、矢ッ張り大胆な奴は仕合せにも死ぬのが早い――『沈着にせい、沈着にせい』云うて進んで行くんやさかい、上官を独りほかして置くわけにも行かん。こ・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・未練がないだけ、僕は今かえって仕合せだと思ったが、また、別なところで、かれらの知らないうちにああいう社会にはいって、ああいう悪風に染み、ああいう楽しみもして、ああいう耽溺のにおいも嗅いで見たいような気がした。僕は掃き溜めをあさる痩せ犬のよう・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ 子供から別れて、独りさびしく海の中に暮らすということは、この上もない悲しいことだけれど、子供が何処にいても、仕合せに暮らしてくれたなら、私の喜びは、それにましたことはない。 人間は、この世界の中で一番やさしいものだと聞いている。そ・・・ 小川未明 「赤い蝋燭と人魚」
・・・のみならず仮りに、私達だけが、仕合せになったとしても、永久に安心できることだろうか。この観念は、いつしか、私をして、階級戦の必然をすら教えてやるに至ったのでした。 そして、また、ある時には、ラスコリニコフを空想家として嗤うことができなく・・・ 小川未明 「貧乏線に終始して」
出典:青空文庫