・・・ 五助は犬の死骸をかたわらへ置いた。そして懐中から一枚の書き物を出して、それを前にひろげて、小石を重りにして置いた。誰やらの邸で歌の会のあったとき見覚えた通りに半紙を横に二つに折って、「家老衆はとまれとまれと仰せあれどとめてとまらぬこの・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・障子襖は取り払ってあっても、三十畳に足らぬ座敷である。市街戦の惨状が野戦よりはなはだしいと同じ道理で、皿に盛られた百虫の相啖うにもたとえつべく、目も当てられぬありさまである。 市太夫、五太夫は相手きらわず槍を交えているうち、全身に数えら・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・ツァウォツキイはすぐに死んで、ユリアの名をまだ脣の上に留めながら、ポッケットに手品に使う白い球を三つと、きたない骨牌を一組入れたまま、死骸は鉄道の堤の上から転げ落ちた。 ツァウォツキイの死骸は墓地の石垣の傍に埋められた。その時グランの僧・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・晩餐を食べましたのは、市外の公園の料理店でございました。ちょうど宅はベルリンに二週間ほど滞留しなくてはならない用事がありましたので、わたくしはひとりでその宴会へ参りました。夜なかが過ぎて一時になりましたころ、わたくしは雑談をいたしているのが・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「辻馬車」
・・・このようなところにも世の乱れとてぜひもなく、このころ軍があッたと見え、そこここには腐れた、見るも情ない死骸が数多く散ッているが、戦国の常習、それを葬ッてやる和尚もなく、ただところどころにばかり、退陣の時にでも積まれたかと見える死骸の塚が出来・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・またその市街の底で静っている銅貨の力学的な体積は、それを中心に拡がっている街々の壮大な円錐の傾斜線を一心に支えている釘のように見え始めた。「そうだ。その釘を引き抜いて!」 彼はばらばらに砕けて横たわっている市街の幻想を感じると満足し・・・ 横光利一 「街の底」
・・・古代の赤煉瓦の壁の間に女神の白い裸身は死骸のごとく横たわっている。そうして千年の闇ののちに初めて光を、炬火の光を、ほのあかく全身に受ける。ヴイナスだ、プラキシテレスのヴイナスだ、と人々は有頂天になって叫ぶ。やがてヴイナスは徐々に、地の底から・・・ 和辻哲郎 「『偶像再興』序言」
・・・ しかし時間はいっぱいだった。市街電車へ乗り換える所へ来て、改札口で乗越賃を払おうとすると、釣銭がないと言って駅夫が向こうへ取りに行く。釣銭などでグズグズしてはいられないのでそのまますぐ駈け出したくなる。しかしあとから駅夫が大声を出して・・・ 和辻哲郎 「停車場で感じたこと」
出典:青空文庫