・・・お嫁はしくしく泣きながら、背中洗ってくれているやさしかった主にむかって、『私が死んでも、――』と言いかけて、さらさらと絹ずれの音がしてお嫁のすがたが見えなくなった。たらいの中には桜貝の櫛と笄が浮んでいるだけであった。雪女、お湯に溶けてしまっ・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・どうしたのか冬子が泣きながらはいって来て、着物をきかえ床へはいってもまだしくしく泣いていた。どうしたかと聞いてみても何も云わないし、外のものにも何故だか分らなかった。 銀座を歩いて夜店をひやかしているうちに冬子が「どうして早く銀座へ行か・・・ 寺田寅彦 「小さな出来事」
○ 曇って風もないのに、寒さは富士おろしの烈しく吹きあれる日よりもなお更身にしみ、火燵にあたっていながらも、下腹がしくしく痛むというような日が、一日も二日もつづくと、きまってその日の夕方近くから、待設けていた小雪・・・ 永井荷風 「雪の日」
・・・象は細ういきれいな声で、しくしくしくしく泣き出した。「そら、これでしょう。」すぐ眼の前で、可愛い子どもの声がした。象が頭を上げて見ると、赤い着物の童子が立って、硯と紙を捧げていた。象は早速手紙を書いた。「ぼくはずいぶん眼にあっている・・・ 宮沢賢治 「オツベルと象」
・・・そしてしばらく口惜しさにしくしく泣いていましたがやっとあきらめてその壊れた傘も持たずうちへ帰ってしまいました。そして縁側から入ろうとしてふと見ましたらさっきの傘がひろげて干してあるのです。照井耕一という名もちゃんと書いてありましたし、さっき・・・ 宮沢賢治 「風野又三郎」
・・・女の子は、いきなり両手を顔にあててしくしく泣いてしまいました。「お父さんやきくよねえさんはまだいろいろお仕事があるのです。けれどももうすぐあとからいらっしゃいます。それよりも、おっかさんはどんなに永く待っていらっしゃったでしょう。わたし・・・ 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
・・・シグナレスはしくしく泣きながら、ちょうどやって来る二時の汽車を迎えるためにしょんぼりと腕をさげ、そのいじらしいなで肩はかすかにかすかにふるえておりました。空では風がフイウ、涙を知らない電信柱どもはゴゴンゴーゴーゴゴンゴーゴー。 さあ・・・ 宮沢賢治 「シグナルとシグナレス」
・・・あったな雨降れば無ぐなるような奴凧こさ、食えの申し訳げなぃの機嫌取嘉吉はまたそう云ったけれどもすこしもそれに逆うでもなくただ辛そうにしくしく泣いているおみちのよごれた小倉の黒いえりや顫うせなかを見ていると二人とも何年ぶりかのただの子供になっ・・・ 宮沢賢治 「十六日」
・・・私は、筆を紙の上に放り出し、始めはしくしく、やがて声を出して泣き出した。 私は、馬鹿と乞食とが世の中で一番いやな、恥しいものだと思っていた。もうじき学校に行くそのお稽古に書く字が、どうしてだか書けない。字の書けないのはきっと馬鹿だろう。・・・ 宮本百合子 「雲母片」
・・・妹娘はしくしく泣きましたが、いちは泣かずに帰りました。」「よほど情のこわい娘と見えますな」と、太田が佐佐を顧みて言った。 ―――――――――――――――― 十一月二十四日の未の下刻である。西町奉行所の白州ははればれ・・・ 森鴎外 「最後の一句」
出典:青空文庫