・・・本真の気持で言うのやないねんぜ。しし、芝居や。芝居や。金さえ貰たらわいは直き帰って来る。――蝶子の胸に甘い気持と不安な気持が残った。 翌朝、高津のおきんを訪れた。話を聴くと、おきんは「蝶子はん、あんた維康さんに欺されたはる」と、さすがに・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・の挨拶を交しながらもつれて行くのが見え、私はそれがおおかた村の人が温泉へはいりにゆく灯で、温泉はもう真近にちがいないと思い込み、元気を出したのにみごと当てがはずれたことや、やっと温泉に着いて凍え疲れた四肢を村人の混み合っている共同湯で温めた・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・ われ近ごろ、猛き獅子と巨蠎と、沙漠の真中にて苦闘するさまを描ける洋画を見たり。題して沙漠の悲劇というといえどもこれぞ、すなわちこの世の真相なるべきか。げにこのわれなき世こそ治子の眼にはかくも映るなるべし。しかしてわれはいかん、われはい・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・男性は獅子であり、鷹であることを本色とするものだ。たまに飛び出して巣にかえらぬときもあろう。あまり小さく、窮屈に男性を束縛するのは、男性の世界を理解しないものだ。小さい几帳面な男子が必ずしも妻を愛し、婦人を尊敬するものではない。大事なところ・・・ 倉田百三 「愛の問題(夫婦愛)」
・・・のみならず、夜になると、歩哨が、たびたび狼に襲われた。四肢が没してもまだ足りない程、深い雪の中を、狼は素早く馳せて来た。 狼は山で食うべきものが得られなかった。そこで、すきに乗じて、村落を襲い、鶏や仔犬や、豚をさらって行くのであった。彼・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・ オンドルは、おだやかな温かみを徐ろに四肢に伝えた。虱は温か味が伝わるに従って、皮膚をごそ/\とかけずりまわった。 もう暗かった。 五時。――北満の日暮は早やかった。経理室から配給された太い、白い、不透明なローソクは、棚の端に、・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・ 二 病室には、汚れたキタならしい病衣の兵士たちが、窓の方に頭を向け、白い繃帯を巻いた四肢を毛布からはみ出して、ロシア兵が使っていた鉄のベッドに横たわっていた。凍傷で足の趾が腐って落ちた者がある。上唇を弾丸で横にか・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・晩には彼は眠られなかった。四肢がけだるく、腰は激しい疼くような痛みを覚えた。昔は自分の肉体など、感じないほど、五体が自由に動いたものだった。それが、今は、不思議に身体全体が、もの憂く、悩ましく、ちょっと立上るのにさえ、重々しく、厄介に感じら・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
・・・ 我邦には獅子虎の如きものなければ、獣には先ず狼熊を最も猛しとす。されば狼を恐れて大神とするも然るべきことにて、熊野は神野の義、神稲をくましねと訓むたぐいを思うに、熊をくまと訓むはあるいは神の義なるや知るべからず。(或曰、くまは韓語、或・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・この山のとなえをいつの頃よりか武甲と書きならわししより、終に国の名の武蔵の文字と通わせて、日本武尊東夷どもを平げたまいて後甲冑の類をこの山に埋めたまいしかは、国を武蔵と呼び山を武甲というなどと説くものあるに至れり。説のいつわりなるべきは誰し・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
出典:青空文庫