・・・これは文学者の誇張であるかもしれないが、こういう例は史上に珍しくはあるまい。同じ筆法で行けば弘安四年六月三十日から七月一日へかけて玄界灘を通過した低気圧は我邦の存亡に多大の影響があったのである。もし当時元軍に現時の気象学の知識があったなら、・・・ 寺田寅彦 「戦争と気象学」
・・・狭く科学と限らず一般文化史上にひときわ目立って見える堅固な石造の一里塚である。 五 相対性原理に対する反対論というものが往々に見受けられる。しかし私の知り得た限りの範囲では、この原理の存在を危うくするほどに有力な・・・ 寺田寅彦 「相対性原理側面観」
・・・その重々しさは四条派の絵などには到底見られないところで、却って無名の古い画家の縁起絵巻物などに瞥見するところである。これを何と形容したら適当であるか、例えばここに饒舌な空談者と訥弁な思索者とを並べた時に後者から受ける印象が多少これに類してい・・・ 寺田寅彦 「津田青楓君の画と南画の芸術的価値」
・・・ この方則の設立、エントロピーの概念の導入という事が物理学の発達史上でいかに重大なものであったかという事は種々の方面から論ずる事ができようが、ここで述べたいと思うのは、空間化された「時」だけでは取り扱う事のできぬ現象を記載するために最も・・・ 寺田寅彦 「時の観念とエントロピーならびにプロバビリティ」
・・・たとえば狩野派・土佐派・四条派をそれぞれこの三角の三つの頂点に近い所に配置して見ることもできはしないか。 それはいずれにしてもこれらの諸派の絵を通じて言われることは、日本人が輸入しまた創造しつつ発達させた絵画は、その対象が人間であっても・・・ 寺田寅彦 「日本人の自然観」
・・・秋坪は旧幕府の時より成島柳北と親しかったので、その戯著小西湖佳話は柳北の編輯する花月新誌の第四十四号からその誌上に連載せられた。佳話の初にまず公園の勝概が述べてある。わたくしは例によって原文を次の如く訓み下す。「忍ヶ岡ハ其ノ東北ニ亘リ一・・・ 永井荷風 「上野」
・・・ 当時居士は東京日日新聞の紙上に其の所謂「吾曹」の政論を掲げて一代の指導者たらんとしたのである。又狭斜の巷に在っては「池の端の御前」の名を以て迎えられていた。居士が茅町の邸は其後主人の木挽町合引橋に移居した後まで永く其の儘に残っていたの・・・ 永井荷風 「上野」
・・・その時雑誌『太陽』の第一号をよんだ。誌上に誰やらの作った明治小説史と、紅葉山人の短篇小説『取舵』などの掲載せられていた事を記憶している。 二月になって、もとのように神田の或中学校へ通ったが、一週間たたぬ中またわるくなって、今度は三月の末・・・ 永井荷風 「十六、七のころ」
・・・源平時代の史乗と伝奇とは平氏の運命の美なること落花の如くなることを知らしめた。『太平記』の繙読は藤原藤房の生涯について景仰の念を起させたに過ぎない。わたくしはそもそもかくの如き観念をいずこから学び得たのであろうか。その由って来るところを尋ね・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・西洋の思想は十九世紀のロマンチズムとそれ以後の個人主義的芸術至上主義とである。わたくしの一生涯には独特固有の跡を印するに足るべきものは、何一つありはしなかった。 日本の歴史は少年のころよりわたくしに対しては隠棲といい、退嬰と称するが如き・・・ 永井荷風 「西瓜」
出典:青空文庫