・・・稍々自分を鎮めてから、はる子は更に云った。「まあもう少し坐っていらっしゃい。――貴女折角それだけの教育を受けたんだから、それを活かす職業を見つけた方がいい」 帰すにも帰せない気がした。はる子は、不図散々知人の間を頭の中で模索した揚句・・・ 宮本百合子 「沈丁花」
・・・心を鎮め、自然を凝視すると、あらゆる不透明な物体を徹して、霊魂が漂い行くのを感じずにはいないだろう。それも、春始めの、人間らしく、或は地上のものらしく、憧憬や顫える呼吸をもった游衍ではない。心が、深くセレーンな空気の裡に溶け入りて一体となり・・・ 宮本百合子 「透き徹る秋」
・・・ けれども、極度な歓喜に燃え熾った感情が、この失策によって鎮められ、しめされて、底に非常な熱は保留されているが、触れるものを焼きつける危険な焔は押えられた今、まったく思いがけないもの――静かに落着いて、悲しげな不思議な微笑を浮べながら、・・・ 宮本百合子 「地は饒なり」
・・・「でもね、 私はほんとうに真面目に考えなければならない事なの、 その事を考えると先ぐ感情が先に立つ、それを鎮めて冷静にして居なければいけないんだから―― やっぱり私一人では困る―― 不断あんまり物にこだわらない京・・・ 宮本百合子 「千世子(二)」
・・・けれども、自分として感動した経験をそれだけで時とともに消させ鎮めさせてしまう。一重の個人的感動で終って、それを女としての感動、人間としての感動にまでひろげて二度目の感動を経験してゆく能力が弱い。婦人が、生活経験の多様さにかかわらず、それを人・・・ 宮本百合子 「婦人の生活と文学」
・・・本で知った他の都会の生活のこと、風変りな生活をしている外国のこと、地上の大さの感じがいつしかゴーリキイの心を鎮め、彼の周囲でゆっくり単調に煮えている臭いような生活とは違った生活の可能性が想われて来る。 大地全体に、そして自分自身に、程よ・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの伝記」
・・・厳粛に心を鎮めて思う時、我――人間ほど「いとしい」ものが在るだろうか、又人間ほど「いとわしい」ものが又と在るだろうか。 私は、丁度、濡れそぼたれた獣同志が、互に身を寄せて暖め合うような、生身の愛と憎と惨めさを感じずには居られないのである・・・ 宮本百合子 「無題」
・・・「陛下、お気をお鎮めなさりませ。私はジョセフィヌさまへお告げ申すでございましょう」 緞帳の間から逞しい一本の手が延びると、床の上にはみ出ていた枕を中へ引き摺り込んだ。「陛下、今宵は静にお休みなされませ。陛下はお狂いなされたのでご・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・まもなくここで、疲れた身体を横たえるであろう看護婦たちに、彼は山野の清烈な幻想を振り撒いてやるために、そっと百合の花束を匂い袋のように沈めておいて戻って来た。 九 山の上では、また或る日拗く麦藁を焚き始めた。彼は・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・その瞬間の栖方の動作は、たしかに何かに驚きを感じたらしかったが、そっとそのまま梶は栖方をそこに沈めて置きたかった。「あの扇風機の中心は零でしょう。中の羽根は廻っていて見えませんが、ちょっと眼を脱して見た瞬間だけ、ちらりと見えますね。あの・・・ 横光利一 「微笑」
出典:青空文庫