・・・「三浦の親は何でも下谷あたりの大地主で、彼が仏蘭西へ渡ると同時に、二人とも前後して歿くなったとか云う事でしたから、その一人息子だった彼は、当時もう相当な資産家になっていたのでしょう。私が知ってからの彼の生活は、ほんの御役目だけ第×銀行へ・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・ と納戸へ入って、戸棚から持出した風呂敷包が、その錦絵で、国貞の画が二百余枚、虫干の時、雛祭、秋の長夜のおりおりごとに、馴染の姉様三千で、下谷の伊達者、深川の婀娜者が沢山いる。 祖母さんは下に置いて、「一度見さっしゃるか。」と親・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・ これは、下谷の、これは虎の門の、飛んで雑司ヶ谷のだ、いや、つい大木戸のだと申して、油皿の中まで、十四五挺、一ツずつ消しちゃ頂いて、それで一ツずつ、生々とした香の、煙……と申して不思議にな、一つ色ではございません。稲荷様のは狐色と申すで・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・ 勿論、別人とは納得しながら、うっかり口に出そうな挨拶を、唇で噛留めて、心着くと、いつの間にか、足もやや近づいて、帽子に手を掛けていた極の悪さに、背を向けて立直ると、雲低く、下谷、神田の屋根一面、雨も霞も漲って濁った裡に、神田明神の森が・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・何だ、ぶしつけな。お蔦 やどをお頼み申上げます。早瀬 お蔦 (行貴方、見ていて下さいな、石段を下りるまで、私一人じゃ可恐いんですもの。早瀬 それ見ろ、弱虫。人の事を云う癖に。何だ、下谷上野の一人あるきが出来ない娘じゃないじゃ・・・ 泉鏡花 「湯島の境内」
・・・ なかにも、これはちいッと私が知己の者の維新前後の話だけれども、一人、踊で奉公をして、下谷辺のあるお大名の奥で、お小姓を勤めたのがね、ある晩お相手から下って、部屋へ、平生よりは夜が更けていたんだから、早速お勤の衣裳を脱いでちゃんと伸して・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・殿「何だえ……御覧なさい、あの通りで……これ誰か七兵衞に浪々酌をしてやれ、膳を早く……まア/\これへ……えゝ此の御方は下谷の金田様だ、存じているか、これから御贔屓になってお屋敷へ出んければ成らん」金田「予て噂には聞いていたが未だしみ・・・ 著:三遊亭円朝 校訂:鈴木行三 「梅若七兵衞」
・・・くには全市で六十か所の火が、おのおの何千という家々をなめて、のびひろがり、夜の十二時までの間にはすべてで八十八か所の火の手が、一つになって、とうとう本所、深川、浅草、日本橋、京橋の全部と、麹町、神田、下谷のほとんど全部、本郷、小石川、赤坂、・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・五厘だけ安いというので石油の缶を自転車にぶらさげ、下谷の方まで買いに出かけるという事であった。八百屋などが来ると自分で台所へ出かけてやかましく値切り小切りをする。大根を歯で喰い欠いてみてこれはいけないと云って突返したりする。煮焚きの事でも細・・・ 寺田寅彦 「イタリア人」
・・・木綿をきり売りの手拭を下谷の天神で売出した男の話は神宮外苑のパン、サイダー売りを想わせ、『諸国咄』の終りにある、江戸中の町を歩いて落ちた金や金物を拾い集めた男の話は、近年隅田川口の泥ざらえで儲けた人の話を想い出させて面白い。これの高じたもの・・・ 寺田寅彦 「西鶴と科学」
出典:青空文庫