・・・とあり、消印は「武蔵東京下谷 卅三年七月二十四日イ便」となっている。これは、夏目先生が英国へ留学を命ぜられたために熊本を引上げて上京し、奥さんのおさとの中根氏の寓居にひと先ず落着かれたときのことであるらしい。先生が上京した事をわざわざ知らし・・・ 寺田寅彦 「子規自筆の根岸地図」
・・・空を仰ぐと下谷の方面からひどい土ほこりが飛んで来るのが見える。これは非常に多数の家屋が倒潰したのだと思った、同時に、これでは東京中が火になるかもしれないと直感された。東照宮前から境内を覗くと石燈籠は一つ残らず象棋倒しに北の方へ倒れている。大・・・ 寺田寅彦 「震災日記より」
もう何年前になるか思い出せぬが日は覚えている。暮れもおし詰まった二十六日の晩、妻は下女を連れて下谷摩利支天の縁日へ出かけた。十時過ぎに帰って来て、袂からおみやげの金鍔と焼き栗を出して余のノートを読んでいる机のすみへそっとの・・・ 寺田寅彦 「どんぐり」
・・・振袖火事として知られた明暦の大火は言うまでもなく、明和九年二月二十九日の午ごろ目黒行人坂大円寺から起こった火事はおりからの南西風に乗じて芝桜田から今の丸の内を焼いて神田下谷浅草と焼けつづけ、とうとう千住までも焼け抜けて、なおその火の支流は本・・・ 寺田寅彦 「函館の大火について」
・・・三十年前にはよくTMと一緒に本郷、神田、下谷と連立って歩いた。壱岐殿坂教会で海老名弾正の説教を聞いた。池の端のミルクホールで物質とエネルギーと神とを論じた。 TMの家の前が加賀様の盲長屋である。震災に焼けなかったお蔭で、ぼろぼろにはなっ・・・ 寺田寅彦 「病院風景」
・・・淋しい田舎の古い家の台所の板間で、袖無を着て寒竹の子の皮をむいているかと思うと、その次には遠い西国のある学校の前の菓子屋の二階で、同郷の学友と人生を論じている。下谷のある町の金貸しの婆さんの二階に間借りして、うら若い妻と七輪で飯を焚いて暮し・・・ 寺田寅彦 「厄年と etc.」
・・・桜痴居士の邸は下谷茅町三丁目十六番地に在ったのだ。 当時居士は東京日日新聞の紙上に其の所謂「吾曹」の政論を掲げて一代の指導者たらんとしたのである。又狭斜の巷に在っては「池の端の御前」の名を以て迎えられていた。居士が茅町の邸は其後主人の木・・・ 永井荷風 「上野」
・・・ 夏から秋へかけての日盛に、千葉県道に面した商い舗では砂ほこりを防ぐために、長い柄杓で溝の水を汲んで撒いていることがあるが、これもまたわたくしには、溝の多かった下谷浅草の町や横町を、風の吹く日、人力車に乗って通り過ぎたころのむかしを思い・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・その途中から支流は東の方に向い、弥勒寺の塀外を流れ、富川町や東元町の陋巷を横ぎって、再び小名木川の本流に合している。下谷の三味線堀が埋立てられた後、市内の堀割の中でこの六間堀ほど暗惨にして不潔な川はあるまい。わが亡友A氏は明治四十二年頃から・・・ 永井荷風 「深川の散歩」
・・・実例としては明治四十三年八月に起った水害の後、東京の市民は幾十年を過ぎた今日に至るまで、一度も隅田川の水が上野下谷の町々まで汎濫して来たような異変を知らない。その代り河水はいつも濁って澄むことなく、時には臭気を放つことさえあるようになったの・・・ 永井荷風 「水のながれ」
出典:青空文庫