・・・ と云いながら、彼は、ロープを揺ぶった。 が、彼は豆粕のように動かなかった。 見習は、病人の額に手を当てた。 死人は、もう冷たくなりかけていた。 見習は、いきなり駆け出した。 ――俺が踏み殺したんじゃあるまいか? 一・・・ 葉山嘉樹 「労働者の居ない船」
・・・今一証を示さんに、駿州清見寺内に石碑あり、この碑は、前年幕府の軍艦咸臨丸が、清水港に撃たれたるときに戦没したる春山弁造以下脱走士の為めに建てたるものにして、碑の背面に食人之食者死人之事の九字を大書して榎本武揚と記し、公衆の観に任して憚るとこ・・・ 福沢諭吉 「瘠我慢の説」
・・・そしてそのじいっと坐っている様子の気味の悪い事ったらございません。死人のような目で空を睨むように人の顔を見ています。おお、気味が悪い。あれは人間ではございませんぜ。旦那様、お怒なすってはいけません。わたくしは何と仰ゃっても彼奴のいる傍へ出て・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・先ず第一に自分が死ぬるというとそれを棺に入れねばなるまい、死人を棺に入れる所は子供の内から度々見ておるがいかにも窮屈そうなもので厭な感じである。窮屈なというのは狭い棺に死体を入れる許りでなく、其死体がゆるがぬように何かでつめるのが厭やなので・・・ 正岡子規 「死後」
・・・殊に死人の墓にまで来て花や盛物を盗む。盗んでも彼らは不徳義とも思やせぬ。むしろ正当のように思ってる。如何に無教育の下等社会だって…………しかし貧民の身になって考て見るとこの窃盗罪の内に多少の正理が包まれて居ない事もない。墓場の鴉の腸を肥すほ・・・ 正岡子規 「墓」
・・・男は前よりも一層かおを赤くしすぐ死人よりも青いかおになってうるんでふるえる目でジッと娘のかおを見つめた。娘もその若い人にはたえられないほどのみ力をもった目をむけて男の瞳のそこをすかし見て居た。二人の間に時はきわめて早く立って行った、男は力の・・・ 宮本百合子 「お女郎蜘蛛」
・・・山田にては土葬するもの少く、多くは荼毘するゆえ、今も死人あれば此竈を使うなり。村はずれの薬師堂の前にて、いわなの大なるを買いて宿の婢に笑わる。いわなは小なるを貴び、且ところの流にて取りたるをよしとするものなるに、わが買いもてかえりしは、草津・・・ 森鴎外 「みちの記」
・・・これ、忰。死人の首でも取ッてごまかして功名しろ」と腰に弓を張る親父が水鼻を垂らして軍略を皆伝すれば、「あぶなかッたら人の後に隠れてなるたけ早く逃げるがいいよ」と兜の緒を緊めてくれる母親が涙を噛み交ぜて忠告する。ても耳の底に残るように懐かしい・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・が、張り切った死人の手足が縁に閊えて嵌らなかった。秋三は堅い柴を折るように、膝頭で安次の手足の関節をへし折った。そして、棺を立てると身体はごそりと音を立てて横さまに底へ辷った。 秋三は棺を一人で吊り上げてみた。「此奴、軽石みたいな奴・・・ 横光利一 「南北」
・・・鼻先から出る道徳に塗り固められて何事も心臓でもって理解することができず、また何事も心臓から出て行為することのできない、死人のような人間です。ゲエテも言ったように、迷うということは生きる証拠です。道義の力は迷った後にほんとうに理解せられる。ま・・・ 和辻哲郎 「すべての芽を培え」
出典:青空文庫