・・・ただほとんど頑なに近い静かさを示しているばかりである。「よろしい。見て上げましょう。」 神父は顋鬚を引張りながら、考え深そうに頷いて見せた。女は霊魂の助かりを求めに来たのではない。肉体の助かりを求めに来たのである。しかしそれは咎めず・・・ 芥川竜之介 「おしの」
・・・いささかでも監督に対する父の理解を補おうとする言葉が彼の口から漏れると、父は彼に向かって悪意をさえ持ちかねないけんまくを示したからだ。彼は単に、農場の事務が今日までどんな工合に運ばれていたかを理解しようとだけ勉めた。彼は五年近く父の心に背い・・・ 有島武郎 「親子」
・・・そうしてこれはしばしば後者の一つの属性のごとく取扱われてきたにかかわらず、近来(純粋自然主義が彼の観照の傾向は、ようやく両者の間の溝渠のついに越ゆべからざるを示している。この意味において、魚住氏の指摘はよくその時を得たものというべきである。・・・ 石川啄木 「時代閉塞の現状」
・・・白き鞭をもって示して曰く、変更の議罷成らぬ、御身等、我が処女を何と思う、海老茶ではないのだと。 木像、神あるなり。神なけれども霊あって来り憑る。山深く、里幽に、堂宇廃頽して、いよいよ活けるがごとくしかるなり。明治四十四年六月・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・「兄さんは何をしますか、繩をなうならいっしょに藁を湿しましょう」「うんおれは俵を編む、はま公にも繩をなわせろ」 省作は自分の分とはま公の分と、十把ばかり藁を湿して朝飯前にそれを打つ。おはまは例の苦のない声で小唄をうたいながら台所・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・自分は今井とともに牛を見て、牧夫に投薬の方法など示した後、今井獣医が何か見せたい物があるからといわるるままに、今井の宅にうち連れてゆくことにした。自分が牛舎の流しを出て台所へあがり奥へ通ったうちに梅子とお手伝いは夕食のしたくにせわしく、雪子・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・かの女は男の立った跡へ直り、煙管でおのれの跡をさし示し、「こッちへおいで」という御命令だ。 僕はおとなしくその通りに住まった。 二階では、例の花を引いている様子だ。「あれだろう?」僕がこう聴くと、「そうよ」と、菊子が嬉し・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ 殊に鴎外の如き一人で数人前の仕事をしてなお余りある精力を示した人豪は、一日でも長く生き延びさせるだけ学界の慶福であった。六十三という条、実はマダ還暦で、永眠する数日前までも頭脳は明晰で、息の通う間は一行でも余計に書残したいというほど元・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・実に今より百年ばかり前のことをわれわれの目の前に活きている画のように、ソウして立派な画人が書いてもアノようには書けぬというように、フランス革命のパノラマを示してくれたものはこの本であります。それでわれわれはその本に非常の価値を置きます。カー・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・その感情に表裏がなく、一たび恩を感ずれば、到底人間の及ばぬ忍耐と忠実とを示して来たのであります。そこには、ただ本能としてのみ看過されないものがある。これに比して人間は、ただ利害によって彼等を裏切ることをなんとも思っていない。それは、自己防衛・・・ 小川未明 「天を怖れよ」
出典:青空文庫