・・・君はまだホラチウスの書なぞを読んで世を嘲っているのかい。僕が物に感じるのを見て、君は同じように感じると見せて好くも僕を欺したな。君はあの時何といった。実にこの胸に眠っているものを、夜吹く風が遠い便を持って来るようにお蔭で感じるといったのう。・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・ら仕方がない、これじゃ次の世に人間に生れても、病気と貧乏とで一生困められるばかりで、到底ろくたまな人間になる事は出来まい、とおっしゃった、…………………というような、こんな犬があって、それが生れ変って僕になったのではあるまいか、その証拠には・・・ 正岡子規 「犬」
・・・今年は肥料だのすっかり僕が考えてきっと去年の埋め合せを付ける。実習は苗代掘りだった。去年の秋小さな盛りにしていた土を崩すだけだったから何でもなかった。教科書がたいてい来たそうだ。ただ測量と園芸が来ないとか云っていた。あしたは日曜だけれども無・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・「よし、僕が見てやる」 篤介が横とびに廊下へ出て行った。「猫が通ったんだよ」 弾機をひねくりながら悌がもったいぶっていったのが、忽ち、「何? え、今のなに」と、機械をすて篤介のところへ立って行った。「何するんだい・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・「なるほど、風俗壊乱というような字があったね。僕はそうは取らなかった。芸術と官吏というだけに解したのだ。政治なんぞは先ず現状のままでは一時の物で、芸術は永遠の物だ。政治は一国の物で、芸術は人類の物だ。」小川は省内での饒舌家で、木村はいつ・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・サア鋤を手に取ッたまま尋ねに飛び出す畑の僕。家の中は大騒動。見る間に不動明王の前に燈明が点き、たちまち祈祷の声が起る。おおしく見えたがさすがは婦人,母は今さら途方にくれた。「なまじいに心せぬ体でなぐさめたのがおれの脱落よ。さてもあのまま鎌倉・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・「これだけだ。」と若者はいいながら火のついた麦藁を鎌で示した。「その火は焚かなくちゃ、いけないものですか。」 若者は黙って一握りの青草に刃をあてた。「僕の家内は、この煙りのために、殺されるんです。焚かないですませるものなら、・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・ あなた僕の履歴を話せって仰るの? 話しますとも、直き話せっちまいますよ。だって十四にしかならないんですから。別段大した悦も苦労もした事がないんですもの。ダガネ、モウ少し過ぎると僕は船乗になって、初めて航海に行くんです。実に楽み・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・しかし僕の遠望観は、ぐるぐると回っている内に、結局この問題に帰着するのである。 何人も気がつくごとく、ここに陳列せられた洋画は主として写生画である。どの流派を追い、どの筆法を利用するにしても、要するに洋画家の目ざすところは、目前に横たわ・・・ 和辻哲郎 「院展遠望」
出典:青空文庫