・・・ その混雑の間をくぐり、お辞儀の頭の上を踏み越さぬばかりに杯盤酒肴を座敷へはこぶ往来も見るからに忙しい。子供らは仲間がおおぜいできたうれしさで威勢よく駆け回る。いったい自分はそのころから陰気な性で、こんな騒ぎがおもしろくないから、いつも・・・ 寺田寅彦 「竜舌蘭」
・・・宗匠はそこで涼の会や虫の会を開いて町の茶人だちと、趣向を競った話や、京都で多勢の数寄者の中で手前を見せた時のことなどを、座興的に話して、世間のお茶人たちと、やや毛色を異にしていることを、道太に頷かせた。「こんな物でもお気に入ったら」おひ・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・各酒肴ヲ弁ジ、且ツ絃妓ヲ蓄フ。亦花街ノ茶店ニ異ラズ。此楼モトヨリ浴ス可ク又酔フ可ク又能ク睡ル可シ。凡ソ人間ノ快楽ヤ浴酔睡ノ三字ニ如クハ無シ。一楼ニシテ三快ヲ鬻グ者ハ亦新繁昌中ノ一洗旧湯ナリ。」と言っている。 小説家春の家おぼろの当世書生・・・ 永井荷風 「上野」
・・・栄子たちが志留粉だの雑煮だの饂飩なんどを幾杯となくお代りをしている間に、たしか暖簾の下げてあった入口から這入って来て、腰をかけて酒肴をいいつけた一人の客があった。大柄の男で年は五十余りとも見える。頭を綺麗に剃り小紋の羽織に小紋の小袖の裾を端・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・酉の市の晩には夜通し家を開け放ちにして通りがかりの来客に酒肴を出すのを吉例としていたそうである。明治三十年頃には庭の裏手は一面の田圃であったという話を聞いたことがあった。さればそれより以前には、浅草から吉原へ行く道は馬道の他は、皆田間の畦道・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・とかくに芝居を芝居、画を画とのみして、それらの芸術的情趣は非常な奢侈贅沢に非ざれば決して日常生活中には味われぬもののように独断している人たちは、容易に首肯しないかも知れないが、便所によって下町風な女姿が一層の嬌艶を添え得る事は、何も豊国や国・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・十返舎一九の『膝栗毛』も篇を重ねて行くに従い、滑稽の趣向も人まちがいや、夜這いが多くなり、遂に土瓶の中に垂れ流した小便を出がらしの茶とまちがえて飲むような事になる。戦後の演芸が下がかってくるのも是非がない。 浅草の劇場では以上述べたよう・・・ 永井荷風 「裸体談義」
・・・百年の経験を十年で上滑りもせずやりとげようとするならば年限が十分一に縮まるだけわが活力は十倍に増さなければならんのは算術の初歩を心得たものさえ容易く首肯するところである。これは学問を例に御話をするのが一番早分りである。西洋の新らしい説などを・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・で前のを便宜のため活力節約の行動と名づけ後者をかりに活力消耗の趣向とでも名づけておきましょうが、この活力節約の行動はどんな場合に起るかと云えば現代の吾々が普通用いる義務という言葉を冠して形容すべき性質の刺戟に対して起るのであります。従来の徳・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・ これではまだ日高君は首肯されないかも知れないからもっとも著しい例を挙げると、ゼ・ニガー・オブ・ゼ・ナーシッサスのようなものである。これは一人の黒奴が、ナーシッサスと云う船に乗り込んで航海の途中に病死する物語であるが、黒奴の船中生活を叙・・・ 夏目漱石 「コンラッドの描きたる自然について」
出典:青空文庫