・・・全く僕は蟄虫が春光に遇っておもむろに眼を開くような悦ばしい気持ちでいることができる。僕は今不眠症にも犯されていず、特別に神経質にもなっていない。これだけは自分に満足ができる。 ただし蟄眠期を終わった僕がどれだけ新しい生活に対してゆくこと・・・ 有島武郎 「片信」
・・・心長閑にこの春光に向かわば、詩人ならざるもしばらく世俗の紛紜を忘れうべきを、春愁堪え難き身のおとよは、とても春光を楽しむの人ではない。 男子家にあるもの少なく、婦女は養蚕の用意に忙しい。おとよは今日の長閑さに蚕籠を洗うべく、かつて省作を・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・ 書中のおもむきは、過日絮談の折にお話したごとく某々氏等と瓢酒野蔬で春郊漫歩の半日を楽もうと好晴の日に出掛ける、貴居はすでに都外故その節お尋ねしてご誘引する、ご同行あるならかの物二三枚をお忘れないように、呵々、というまでであった。 ・・・ 幸田露伴 「野道」
・・・ 葛西橋の欄干には昭和三年一月竣工としてある。もしこれより以前に橋がなかったとすれば、両岸の風景は今日よりも更に一層寂寥であったに相違ない。 晴れた日に砂町の岸から向を望むと、蒹葭茫々たる浮洲が、鰐の尾のように長く水の上に横たわり、・・・ 永井荷風 「放水路」
・・・逆賊門とテームス河とは堤防工事の竣功以来全く縁がなくなった。幾多の罪人を呑み、幾多の護送船を吐き出した逆賊門は昔しの名残りにその裾を洗う笹波の音を聞く便りを失った。ただ向う側に存する血塔の壁上に大なる鉄環が下がっているのみだ。昔しは舟の纜を・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・この建物も、始め起工した時から近年完成する迄には数十年を閲し、信徒の中には、自分の息子を大工、左官に仕立てその労力を献じて竣工させたという話も聞いた。御堂の大さは確に、大浦天主堂の数倍あるであろう。合唱台もあるらしかった。けれども、建物がが・・・ 宮本百合子 「長崎の印象」
出典:青空文庫