・・・わたくしの生涯を破壊したのです。あいつが最初電車から飛び下りて、わたくしを追いかけて、あの包みを渡しさえしなかったら。」「しかし誰でもあの男の場合に出合ったら、あの男と同じ行為に出でたでしょう。どうも外に為様はないじゃありませんか。一体・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・これで交通の障碍がやっと除かれたのである。おれはこの出来事のために余程興奮して来たので、議会に行くことはよしにした。ぶらぶら散歩して、三十分もたってから、ちょうど歩いていたスプレエ川の岸から、例の包を川へ投げた。あたりを見廻しても人っ子一人・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・今度の家は前のせまくるしい住居とちがって広い庭園に囲まれていたので、そこで初めて自由に接することの出来た自然界の印象も彼の生涯に決して無意味ではなかったに相違ない。 彼の家族にユダヤ人種の血が流れているという事は注目すべき事である。後年・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・私の考えでは婦人というものに天賦のある障害があって、男子と同じ期待の尺度を当てる訳にはいかないと思う。」 キュリー夫人などが居るではないかという抗議に対しては、「そういう立派な除外例はまだ外にもあろうが、それかといって性的に自ずから・・・ 寺田寅彦 「アインシュタインの教育観」
・・・もし旋風のためとすればそれは馬が急激な気圧降下のために窒息でもするか内臓の障害でも起こすのであろうかと推測される。しかしそれだけであってこのギバの他の属性に関する記述とはなんら著しい照応を見ない。もっとも旋風は多くの場合に雷雨現象と連関して・・・ 寺田寅彦 「怪異考」
・・・そういう事実を無視して、科学ばかりが学のように思い誤り思いあがるのは、その人が科学者であるには妨げないとしても、認識の人であるためには少なからざる障害となるであろう。これもわかりきったことのようであってしばしば忘られがちなことであり、そうし・・・ 寺田寅彦 「科学者とあたま」
・・・家あるいは国民と称するものの有機的結合が進化し、その内部機構の分化が著しく進展して来たために、その有機系のある一部の損害が系全体に対してはなはだしく有害な影響を及ぼす可能性が多くなり、時には一小部分の傷害が全系統に致命的となりうる恐れがある・・・ 寺田寅彦 「天災と国防」
・・・ 道太は何をするともなしに、うかうかと日を送っていたが、お絹とおひろの性格の相違や、時代の懸隔や、今は一つ家にいても、やがてめいめい分裂しなければならない運命にあることも、お絹が今やちょうど生涯の岐路に立っているような事情も、ほぼ呑みこ・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・ディーツゲンのようにえらくはないにしても、地方にいて、何の誰べぇとも知られず、生涯をささげるということは美くしい気がした。そしてこの竹びしゃく作りなら、熊本の警察がいくら朝晩にやってこようと、くびになる怖れがなかった。「しかし、彼女は竹・・・ 徳永直 「白い道」
・・・ 西行も、芭蕉も、ピエール・ロチも、ラフカヂオ・ハアンも、各その生涯の或時代において、この響、この声、この囁きに、深く心を澄まし耳を傾けた。しかし歴史はいまだかつて、如何なる人の伝記についても、殷々たる鐘の声が奮闘勇躍の気勢を揚げさせた・・・ 永井荷風 「鐘の声」
出典:青空文庫