・・・また第百十二段に大事の前に小事を棄つべきを説く条でも同様である。国のために、道のために、主義のために、真理の探究のために心を潜めるものは、今日でも「諸縁を放下すべき」であり、瑣々たる義理や人情は問題にしないのである。それが善い悪いは別として・・・ 寺田寅彦 「徒然草の鑑賞」
・・・多くの場合にこの室の屏風からは何物をも受取る事が出来ないので、今度はその隣りにある洋画臭い風景画に移って行くと、その新しい描き方に少時足を止めさせられたりする。しかしそれと同じような絵で、もっと好いのを前にどこか他所で見たような気がし出して・・・ 寺田寅彦 「帝展を見ざるの記」
・・・近頃は西洋人も婦人まで草鞋にて登る由なりなどしきりに得意の様なりしが果ては問わず語りに人の難儀をよそに見られぬ私の性分までかつぎ出して少時も饒舌り止めず、面白き爺さんなり。程が谷近くなれば近き頃の横浜の大火乗客の話柄を賑わす。これより急行と・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・谷中の台地から田端の谷へ面した傾斜地の中腹に沿う彎曲した小路をはいって行って左側に、小さな荒物屋だか、駄菓子屋だかがあって、そこの二階が当時の氏の仮寓になっていた。 店の向かって右の狭苦しい入口からすぐに二階へ上がるのであったかと思う。・・・ 寺田寅彦 「中村彝氏の追憶」
・・・ 宮の下で下りて少時待っているうちに、次の箱根町行が来たが、これも満員で座席がないらしいので躊躇していたら、待合所の乗客係が気を利かして居合わせたハイヤーを別に仕立ててバス代用に提供してくれた。のろい人間もたまに得をすることがあるのであ・・・ 寺田寅彦 「箱根熱海バス紀行」
・・・お絹はお芳に手伝わせて、しまってあった障子を持ちだしたりした。「しかし姉さんはお芳さんと組んでここをやってゆきたいんだろう。姉さんの立場も考えなくちゃね」「姉さんは大阪へ行けばいいんです。それこそ気楽なもんや。こんな貧乏世帯を張って・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・あかるい二階の障子窓から、マンドリンをひっかきながら、外国語の歌をうたっている古藤の声や、福原や、浅川のわらい声が、ずッとちがった、遠くの世界からのようにきこえていた。 三「社会問題大演説会」は、ひどく不人気だった。・・・ 徳永直 「白い道」
一 小庭を走る落葉の響、障子をゆする風の音。 私は冬の書斎の午過ぎ。幾年か昔に恋人とわかれた秋の野の夕暮を思出すような薄暗い光の窓に、ひとり淋しく火鉢にもたれてツルゲネーフの伝記を読んでいた。 ツルゲネーフはまだ物心もつ・・・ 永井荷風 「狐」
・・・明後日が初酉の十一月八日、今年はやや温暖く小袖を三枚重襲るほどにもないが、夜が深けてはさすがに初冬の寒気が感じられる。少時前報ッたのは、角海老の大時計の十二時である。京町には素見客の影も跡を絶ち、角町には夜を警めの鉄棒の音も聞える。・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・丁度道の片側に汚い長屋建の小家のつづきはじめたのを見て、その方の小路へ曲ると、忽ち電車の線路に行当った。通りがかりの人に道を尋ねると、左へ行けばやがて境川、右へ行けば直ぐに稲荷前の停留場へ出るのだというのである。 わたくしはこの辺の地理・・・ 永井荷風 「元八まん」
出典:青空文庫