・・・語調が哀れで悄然としていた。唇が動くにつれて、鰌髭が上ったり下ったりした。返事は露西亜語で云われたが、彼には意味がとれなかった。「どうして、こんなところへやって来たんだ?」 彼は、また露西亜語できいた。老人は不可解げに頸をひねって、・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・ 三十分ほどたつと、彼は手ぶらで、悄然と反対の方から丘を登り、それから、兵営へ丘を下って帰って来た。ほかの者たちは、まだ、ぺーチカを焚いている暖かい部屋で、胸をときめかしている時分だった。「ああ、もうこれでやめよう!」彼は、ぐったり・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・自分などよりは文学の上でも年齢の上でもかなり先輩だと思っていた春月が三十九歳で、現在の私の年齢より若くて死んでいるのを碑文を見て不思議なような気持で眺め直した。生前の春月を直接知っていたのではない。その詩や、ハイネ、ゲーテの訳詩に感心したの・・・ 黒島伝治 「短命長命」
・・・支那兵は生前、金にも食物にも被服にもめぐまれなかった有様を、栄養不良の皮膚と、ちぎれた、ボロボロの中山服に残して横たわっていた。それを見ると和田は何故とも知れず、ぞくッとした。 一度退却した馬占山の黒龍江軍は、再び逆襲を試みるために、弾・・・ 黒島伝治 「チチハルまで」
・・・ 軍医の声は、看護長の物々しさに似ず、悄然としていた。 負傷者は、一寸見当がつかなかった。なんでもないことのようであもあり、又、非常な突発事件のようでもあった。彼等は乗込んだ橇から暫らく立上ろうとしなかった。そこらにいた看護卒も軍医・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・これを聞いていた源三はしくしくしくしくと泣き出したが、程立って力無げに悄然と岩の間から出て、流の下の方をじっと視ていたが、堰きあえぬ涙を払った手の甲を偶然見ると、ここには昨夜の煙管の痕が隠々と青く現れていた。それが眼に入るか入らぬに屹と頭を・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・先生の多くの著訳書中、其所謂「生前の遺稿」なる「一年有半」及び「続一年有半」が翼なくして飛んだ外は、殆ど売れたという程の者はない。彼の「一年有半」「続一年有半」すらも、若し死に瀕しての著作でなかったならば、アノ十分の一も売れなかったかも知れ・・・ 幸徳秋水 「文士としての兆民先生」
・・・男は自分の思惑を憚るかして、妙な顔して、ただもう悄然と震え乍ら立って居る。「何しろ其は御困りでしょう。」と自分は言葉をつづけた。「僕の家では、君、斯ういう規則にして居る。何かしら為て来ない人には、決して物を上げないということにして居る。・・・ 島崎藤村 「朝飯」
・・・美しい少年の生前の面影はまた、いっそうその死をあわれに見せていた。 末子やお徳は茶の間に集まって、その日の新聞をひろげていた。そこへ三郎が研究所から帰って来た。「あ――一太。」 三郎はすぐにそれへ目をつけた。読みさしの新聞を妹や・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・彼女は旦那の生前に、自分がもっと旦那の酒の相手でもして、唄の一つも歌えるような女であったなら、旦那もあれほどの放蕩はしないで済んだろうか、と思い出して見た。おげんはこんなことも考えた。彼女と旦那の間に出来たお新は、幼い時分に二階の階段から落・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
出典:青空文庫